はらまち自治・消防史
付 はらまち警察・犯罪史

江戸時代の姿

郷土史家斉藤笹舟に「各町々における中堀」という文がある。
今はその陰を没して、町中の堀は最近まで大坪、黒木、鹿島、原町、小高、浪江、長塚、新山、熊町にありました。是は使水(つかいみず)として便利でありましたが火防のため主として開通せられました。両岸に柳桜を植ゑ、街路樹は又一種の趣を呈して、いふにいはれぬ美観、月下梢風に恋を囁く、又風情でありました
(斉藤笹舟「相馬郷土文化志」第2巻郷土編(前編)226p)
各町の目抜き通りに中堀をうがってあった。防火のためである。原町は、嘉永六年1852に全焼している。明治のはじめ1868に、兵火という猛火によって再び町並みは焼き尽くされた。笹舟らが風情として懐旧を抱いた風景には、防火というしんじつ町民の願いがこめられていたのである。

戊辰の兵火、原町を焼く

慶応4年 戊辰の役で、仙台兵が退却しながら原町宿場を焼き払った。
齋藤笹舟は昭和二十五年の「相馬郷土志」において、「明治戊辰仙台兵原町を焼いて退く」と題して次のように書いている。
「明治戊辰、平落城の直後でありました。連合軍は四ツ倉に退いて負け、木戸・広野に破れ、独り相馬藩兵は南境に足を止めて戦ってゐました。仙台兵これを顧みず、なだれをうって北走いたしました。その道すがら小高・原町の駅家を焼いて敗走致しました。かれ官賊に宿舎にさるるをおそれてであったさうな。即ち、
「原ノ町放火の折焼死面々(田代清右エ門手記より)
八月二日中郷原駅焼死。入山上給人 牛河内婿七 道広二十二歳 山田直衛 秀勝十七歳 桃井勇太郎 義知三十五歳 渡部与惣右エ門 良宗四十二歳 戊辰七月、原町はその快災に苦しみました。」
上栃窪村志賀与祖右衛門由隆の「戊辰戦争記」の覚書によれば、「二日目玉薬箱江火入原町焼失ス怪我人出来申候」とある。
富田高慶は次のように日記に記した。
「八月二日雨 昨朝浪江ニテ又々争戦不利。今日鹿島迄引揚、原町焼失ノ趣申来ル」(富田高慶日記)
つづいて8月3日には、鹿島と中村でも同様の火事が続いた。
「八月三日鹿嶋江引揚中村田子屋兵具蔵焼失」(志賀由隆覚書)
「城郭東北隅ノ弾薬倉製薬ヲ誤テ火ヲ失ス、備蓄ノ弾薬瞬息烏有トナル、其声恰モ百千ノ兵襲撃シテ大砲小銃一時ニ連発スルカ如シ」(相馬市史2相馬偉人顕彰会編「戊辰戦争記」)
「戊辰戦争記」は、中村城郭の弾薬庫の爆発を偶発的な火事として記録しているが、原町、鹿島、中村の三件ともに、同じような状況下で兵具弾薬庫に連続して火が入っている。しかも、官軍に降伏する直前の8月2日、3日という、中村藩幹部が水面下で終戦工作に奔走していた時期に重なっている。
敗走する仙台藩兵による戦略的な連続放火とみるのが合理的な解釈であろう。

原町大火と消防組起源

原町市史では「明治十五年の原町大火」として次のように書いている。
「明治十五年二月十二日午後八時ころ旧原町陣屋に設けられていた青年学校より出火し、折りからの西北の烈風にあおられて町の大部分を焼いてしまったことがある。火勢は十一時頃まで続き、町の中心部八十余戸を焼き尽くして鎮火した」
「明治十六年の大火」では「明治十六年一月四日下町小川橋付近前田伊助方より火を発し、前年に続く大火災となり、前年の大火で焼け残った家屋のほとんどを焼き尽くしてしまった」
相馬市史年表も、原町市史の既述をそのまま再録している。
ところが、郷土史家齋藤笹舟の「原町における消防発達史」によれば、原町大火は明治十四年と十五年であった、として、状況を次のように説明している。

「明治十四年後における火災と設備を知るに、先づ明治十四年二月の大火より出発しなければなりません。即ち二月十四日午後十一時頃、火は陣屋跡に設けられた青年学校より、全町をなめつくしました。焼失家屋八十余軒、重なる建物は原町警察署・戸長役場、阿部検断所(今いふ運送店)伏見茂右エ門・松本孫右エ門酒造家・佐藤太之助(叶屋)原の町郵便局。明くる明治十五年十二月又た下町前田伊助(丸屋旅館)火を失して同所下町渋佐寿郎、管野信忠より以北十五軒を焼き尽くしました。

岡和田甫の回想記によると、これもまた異なる。
「明治十四年二月十四日(旧暦十三年十二月二十七日)陣屋より発火し附近の野馬追の守護神、初発妙見社は類焼し猛火は南北に延焼したる時、不思議にも三島神社境内には火の粉ひとつ落ちず、隣接の宮司菅頭家及び松谷、門馬、佐藤準一郎氏等氏子総代三家を残して全町殆んど烏有に帰したのであった。」と。

佐藤準一郎とあるのは戸長の佐藤純一郎のことである。のちに、昭和33年に純一郎の子佐藤政蔵の葬儀の時に、友人を代表して弔辞を述べた折に、岡和田は、政蔵の出自に触れて父親の純一郎が原町大火のあと、町は罹災者に生活保障の給付を与えたものの、快復してのちも罹災町民からの資金回収が芳しくないことを戸長として責任を心痛のあまりに悶死したという故事を紹介したことを、子孫が聞き覚えている。町の財政はその程度に逼迫しており、連続して起きた明治の原町大火はその程度に甚大な被害であった、ということだろう。純一郎は明治25年にわずか39才で没している。

市立博物館の年表は、平成6年に原町市教育委員会から発行された「中の郷から原町市へ」年表と同じく明治15年の大火の項目だけを記して、14年とも16年ともに記録していない。
確証に足る典拠がないから、確定せずに、あらゆる記録に重複してあらわれている「明治15年」ならば、確かだろうと推定したのでもあろう。内容と日付まで記していないので、どちらにでも逃げられる記述になっている。2年続きの原町大火が、明治14.15年なのか、明治15.16年であったのかさえも、判断を放棄しているように見える。旧版の原町市史の記述も、あるいは当時存在していた報告書か、行政資料にもとずいての記述と想定されるものの、かんじんの史料そのものが、昭和42年の市役所の火災によって、「烏有に帰した」ので、かえすがえすも残念なことである。
原町の明治の御世の最初が兵火という人為的な火事によってスタートし、その懊悩の苦しみから立ち直りかけた15年、16年の連続した失火によって、さらに苦悩したのである。戸長の佐藤純一郎が、その後の町政復興に人生の大切な時期を消耗し、懊悩の中で死んでいったという故事を、当時を知る岡和田甫氏の記憶を介して、昭和33年の、純一郎の次男政蔵の葬儀のときに、政蔵の長女桃子が聞いていた。かすかに佐藤家の家族史と、同時代を記録しつづけた「富田高慶日記」をつなぐとき、ようやく、生まれたばかりの原町の姿がおぼろげながらに見えてくる。おそらくは、もっとも具体的で即時的な富田の日記に判断の典拠を求めるのが、妥当な線かと思われる。

明治14年 中村大火
1月18日「昨夜中村市中大火ノ由」(富田高慶日記)
3月15日「中村市中焼失極御手当トシテ君公ヨリ金三円、並細木被下候趣、当社ヨリ百円手当致候様木崎ヘ托ス」(富田高慶日記)

明治15年   原町大火
2月「同十二日晴
一午後九時頃原駅元学校所ヨリ出火。烈風同駅過半焼失。午後一時頃鎮火」「同二十八日晴 一原町焼失難人ヘ当社ヨリ助成金、五拾円今延之助持参、戸長へ相渡候事」(富田高慶日記)
明治16年 仝
明治16年1月「同四日晴
一午後八時頃原駅出火。二拾軒頬類焼。同十一時頃鎮火」(富田高慶日記)

「福島県消防史」(昭和7年・福島県消防協会)によると、明治の大火は14.15年としてある。すでに資料提供の段階で、誤謬があるのだが、概略と設備の変遷については他に参考すべきものがないため、便宜上そのままこれを使うことにする。

町の復興と消防組縁起

この明治十四、十五年両度の火災に罹りたるを以て、組織立ちたる消防隊員のなきの不便を覚り、先づ鈴木竜助を推して組頭として、雲竜水ポンプを購入して防備の要に供しましたが、規律訓練にあらず、器具亦完備せるにあらざれば、烏合の集に等しきものにして、組頭でさへ殆ど持ち廻りでありました。消防手の如きは全町の男子は全部消防手でありました。器具としては各個人、鳶口・ズックの水吸(みずくみ)を持ち、服装は亦モジリ脚絆でありました。
そののち雲竜水ポンプを一台購入し、このポンプは二人にて肩負(かつぎ)、火事場に到って使用いたしました。
去る明治十七年より同二十六年に至る十有余念間における消防に関する事項は不明でありますが、明治二十七年勅令第十五号消防組頭規則により公認となり、当原町村においては、同年十月六日村会の決議により消防器具・設備・員数を備ふこととなり組名は原町組、部は第一、二、三、四部(一部は南新田、二部は同上三部は桜井、上渋佐、四部下渋佐)設備としてはポンプ、竜吐水・水桶類、梯子・長鳶口・手鳶口・刺又・まとい・旗・高張提灯・馬上提灯・細長提灯などであります。
その後明治三十一年四月に至り県令第四十三号消防組施行規則により消防組はいよいよ公認となり、即ち消防組織は、組頭一名、小頭若干名であります。
その後年次不明であるが、阿部市助組頭時代でありました。三島神社境内に木製の火のみ櫓を設置し警報の具と致しました。腕用ポンプは角田千代記組頭時代でありました。

明治25年9月15日民報
明治26年9月20日民報

原町および市域各村の消防組の起源はたとえば次のようである。(「福島県消防史」より)

「第十六節 原町署管内」
「原町

本組沿革は、堀川組頭の厚意により極めて貴重なる文献を豊富に提供されたことを断っておきたい。ただ惜しむらくは各組同様紙数の制限による一事である。但し古文は総論中に加へるつもりである。
秩序なかりし旧幕時代の火消より、近代的消防への第一歩は、中村町の大火、及び明治十四年、十五年のおける本町の火災の影響は見逃し得い(注。得ない)、即ち、此の両度の火災直後に、秩序と設備ある消防組を組織せよと云ふ声は、実に苦い体験から生める住民の叫びであった。その結果が、鈴木龍助を組頭とする近代色の消防組出現となったのである。然し、此の組織でさい(さえ)も、それ一度び(ひとたび)皮相の観を以てすれば、名実伴なはぬとの評を如何とすることが出来なかったほど、極めて幼智(幼稚)なものであった。従って、此の時代、即ち漠然たる消防形態に対して、吾人は殊更に之を明瞭化する煩を避けた方が妥当であると信ずる。勿論、当時の内容に至っては知るに由なく、徒らなる口碑は採らぬこととする。
勅令消防は、明治二十七年十月六日、当時村制であった村会の決議によって組織されたもので、四部編成であった。
大正七年四月二十日高野順方の火災には、時の佐藤組頭焼壁の下敷となり、再起不能になられたことは惜しみても余りある沿革史上の恨事である。
大正十一年の大火には、県当局より救助金として千六百二十八円給与され、遠藤豊外五十六名に伝達された。現在の屋上制限組合は此の時に組織されたものである。更に翌十二年には町会の決議に基いて組員三十名を増員し、即ち元組織に至って居る。
警備費状況
一、明治二十七年度 金二十九円二十三銭八厘
一、昭和六年度   金四千四百六十円
所有ポンプ状況
一、ガソリンポンプ 三台
一、腕用ポンプ 六台
組織状況
一、総人数 百八十四名(四部制)」

参考までに、大正七年に出版された岡和田甫編、発行の「原町地方紹介」を次に掲げる。

消防

当町消防組は現在組員百二十七名にしてポンプ六台、鳶口三十三挺、斧六挺、梯子五挺、纏ひ三本を備ひ、毎年十二月初日より翌年三月末まで夜警を行ひ、火災期の警備に当る。近来当所に火災の多からざると罹災損害額の少きとは即ち組員の職務に忠実なるに依る、現在幹部左の如し
組頭佐藤貫良、副組頭石井栄吉、小頭高橋柳助、同遠藤勤、同木村清作、同池田豊治、同大松米治。
明治十五年二月八日当町大火災あり、遠藤周輔、鈴木龍助、門馬直記、今村源八、小林助太郎、佐藤純一郎の諸氏相謀り私設消防組を組織し、鈴木龍助氏組頭となる、之を当町消防組の創始と為す、爾来今村源八、松本良七、佐藤新太郎、桜井政員、佐藤政蔵、佐藤徳助氏等順次組頭となり以て現組頭に至る、現組頭佐藤貫良氏は予備陸軍薬剤官にして現に当町軍人分会副会長たり、常に身を以て衆を率ゐ、屡(しばしば)危険を冒して奇功を奏せり、大正七年四月二十日当町高野医院失火の際、重傷を負ひ一命を危うせり、又た以て其の平生を知るべし。

「高平組

所謂若者組が組織されたのは明治五年である。役付としては頭一名、副頭一名があった。活動内容は単なる馳せ付け消防で、その翌年龍吐水二挺の設備によって多少面目を一新し、更に明治二十五年、篤志家大槻太郎の寄付による腕用ポンプ一台の購入が、近代的消防への第一歩である。勅令消防は百八十一名を以て組織された。」

石神組

旧十三ヶ村時代、明治七年の頃若者火消団が組織された。翌八年は県令達により組織を改められていよいよ統制ある火消組織を見ることが出来たが、特に認むべき活動はなかったやうである。
勅令消防は二百四十七名を以て組織されたが、此の年の警備費は村会の否決するところとなり、組員必死の運動は、遂に翌二十八年十一月十九日の追加予算によって認められ、逐次発達の域に進み、大正九年二月、組員三十名を減員して現組織に及んで居る。因に太田秋之助組頭は、就任十年の組頭にして、実に本組長足の進歩は此の人に負ふところ大なりと云ふべし。
警備費状況 昭和5年 金千円
所有ポンプ状況 腕用ポンプ 9台
組織状況 総人数 百九十名(八部制) 各二十七名
主なる火災(別掲)」

「太田組

沿革殆ど不明である。明治二十年頃火消しといふ名称の団体があって、当時手力水を使用して居たと云ふ以外に凡て不明である。これが亦編者充分の責めを感ずる次第である。
勅令消防は明治二十八年に組織され、特筆すべき変遷を見ぬ。
所有ポンプ
一、腕用ポンプ 四台
組織状況
一、総人数 百五十一名(四部制)
警備費状況  昭和六年度 金五百五円
主なる火災(別掲)」

「大甕組

旧幕時代の状況は判然としない。ただ明治初年頃若者火消がありて、頭、伍長の統率の下に破壊消防に従事した。と云ふ口碑がある。明治十五年に龍吐水を設備したとあるは、此の若者組の進化したものであると思ふ。但し勅令消防直前は村内十一組の消防組があったと云ふが、内容詳らかではない。勅令消防は百五名の五部編成であったが、間もなく三十三名の増員を行ひ、更に明治末期に及んで二十二名されて現組織に至って居る。
所有ポンプ状況
一、腕用ポンプ 八台
組織状況
一、総人数 二百四名(五部制)
警備費状況 昭和六年度 金九百八円
主なる火災(別掲)
歴代組頭

明治27年民報
日清戦争起こる
3.25.小高村の火災

明治31年3月15日福島新聞
飯豊村大字百槻小高町大火罹災者義捐金募集広告
蔵小屋の焼失
相馬郡上真野村の火災 小山田 早川常蔵方 楮(こうぞ)を煮んとて竈に火を焚き
4.16. 真野川に溺る

明治32年 小高大火
明治33年12月16日 民報
○消防手の内輪悶着 相馬郡太田村

明治35年 小高大火
2.9.太田学校の椿事 教室の墜落 負傷生徒四十余名
2.26.勤勉の報酬 佐藤新太郎
2.26.軍人団と幻灯 新祥寺で雪中行軍大惨事幻灯会
3.11大甕 青年夜学会
3.11太田学校墜落の後報
4.2.浮世のぞき 小泉屋の草餅
4.10大甕村内選挙騒ぎ
4.11道路問題の紛擾 陳情書

35.5月 新山町大火の詳報 小高町大火罹災者救助義捐金募集広告
5.2. 相馬郡の大火
5.3. 小高付近の大火詳報
5.6. 小高神社本日類焼神体無事 四月三十日右社務所 広告
5.6.  新山町大火 小高大火広告
7.1. 新地大火

明治35年10月19日 相馬郡太田村通信 過日の暴風に就ては左程の被害なく只潰家二ありし
12月6日 相馬郡の罹災救済

「明治38年同じ益田部落の佐藤安治が西の大浦家から東へ6軒類焼する火災にあい、自家の再興のため、隣から800円借りて単身ロサンゼルス市へ出稼ぎに行き」「新妻家の人々」(新妻智著)より

41.9.29.福島新聞 大堀消防組の紛擾

明治42年1月6日 民報
○ 原町組消防の歌
(1) 健児の一隊百五十、股引ハッピの、いき姿、襟に染めぬく、原の町、消防組の模範たり。
(2) 見よひるかへる組旗は、幾戦場の往来に、焔に焦がれ煙に染み、破れし様ぞ勇ましき。
(3) 立つや二条の金馬簾、一は火防の功労に、一は規律と訓練の、好成績の章(しるし)なり。
(4) ポンプは二号の独逸形、水勢飽く迄強烈に、天空をしてほとばしる、猛火もなどて恐るべき。
(5) 肌を裂ざく厳冬の、風も冷たき夜もすがら、夢暖かき幾千の、人の眠りを保護せんと。
(6) 夜毎夜ごとの夜警隊、組を分かちて裏表、警邏をさをさ怠らず。
(7) 花咲く春の野に出でて、歩調正しき教練の、中に平和の風そよぎ、組に一致の和楽あり。
(8) 焔の中に分け入りて、いや目ざましき奮闘の、中に規律の風見いて、意気衝天の概はあり。
(9) 風吹きすさぶ秋冬を、火防の任務身に負ひて、纏ふハッピは薄けれど、思ひや厚き義侠心。
(10) 組に尊き歴史あり、組の前途に、希望あり、百難何か、たゆたわん、イザや進まん諸共に、万歳万歳。

明治41年2月15日、大字高、六戸焼失
(福島県消防史)太田

明治42年 新年の豪雪で大甕村役場が倒壊
1月16日民報
42.1.16.福島新聞 大甕村大雪で倒壊
42.1.14.福島新聞 大戸村 龍田村の消防
42.1.15.双葉郡南消防組の紛擾

明治43年3月4日 民報
○ 三度火を放つ 会社を焼かんとせし女工  原町機業株式会社

明治43年2月24日民報
○ 大野村の大火
○ 中村町の大火 小学校の一部焼失
明治43年8月17日民報
原町全町浸水
●県下各地の出水と被害
明治45年4月16日 石神大原火事

明治45年4月16日、大字大原より出火、住家七十二戸、非住家百六十八棟焼失、損害十六万円、原因炭焼小屋より失火。(福島県消防史)

明治45年福島新聞
4.28.原野火入の注意4.30.
5.4. 相馬山火事の損害 大野村から金房村まで九ヶ村26万町歩1万円余
石神村236町歩2万2000円 太田村200町歩600円 5.10.

大正時代の消防

大正2年
中村の郡庁舎が焼失。
大霜害。
上町より出火、大火となる。(小高町史)
3.6.七十四余戸を焼いた馬鹿春の処刑 小高大火事件の悶着 馬鹿春(大正2年福島新聞)
6.27.監獄が恋しい 小高を火にした男
3.25.旅行はがき 小高の大火(福島新聞)
3.26.旅行はがき 小高の大火つづき(福島新聞)
大正2年4月6日、大字益田、六戸焼失
(福島県消防史)太田
4.6.太田村益田で火事。福島新聞
4.8.全焼四十一棟 損害一万七千円に達す福島民報
4.10.佐藤安治の見舞い御礼広告。福島新聞
4.11.同。
4.13.御見舞御礼 佐藤辰次郎、渋佐文七、佐藤安治、佐々木忠助、木幡信喜清福島民報
5.21.激浪中に漂ふ漁夫十五名 相馬渋佐浜の海椿事
8.28.濁水中の二市十七郡 相馬浪江でも水害
床次総裁仙台に 常磐線の駅長も集合
8.30.大出水の惨禍 小高床上浸水 太田橋も流失す 国道太田橋流失す 廿八日富岡土木監督所 新田川十尺 真野川九尺
8.31.小高海岸の惨状 汽車開通期
9.2.本線と海岸線 連絡は尚三日間
9.3.浪江小高間は一日開通
9.3.死者行方不明122  流失倒壊家屋788  浸水家屋22,916
9.4.県下各地の水害後報
9.9.火災見舞金の交付 高平村小林要助
9.13.水害地無賃運送 鉄道院は宮城福島両県下今次の水害罹災民に対し救助の為め寄送品は院線各駅より両県各駅着に限り九月十一日より十月十五日迄無賃輸送し家屋建築材料品肥料衣類食料品など罹災民購入品は同期間五割引にて運送取扱をなす由
以上、福島新聞

大正3年福島日日
6.18.原町出火の不審
10.10. 花の中村
▽郡役所開庁式
11.8.祝中村郡役所開庁式 広告

大正4年 福島日日
1.8.原町消防の水力競争 遠藤鬼喜。小林勘両氏このたび辞任
7.18.佐藤徳助君の葬儀
9.25. 島氏最高点か
25.鈴木小高優勢 大飛行10月7日と決定
9.28.中村町の栄誉者 田中領太郎氏

10.31.鹿島校開校広告
11.10.原町 原町御大典記念事業 不明 郡議選挙違反
11.12.石神村御大典記念
11.19.中村官民奉祝会

12.14.  焼枝原の町まで飛ぶ

大正4年福島新聞
3.26.石神村の火事 十九日午後十時三十分、二谷惣助、一軒四棟全焼。

大正5年福島日日
相馬石神の山火事
発火の罪は誰ぞ 数千町歩を焼失す 客年十二月七日
2.15.石神消防紛擾 表彰不当が原因で 原町父兄懇談会と学芸会
4.16.富岡大火
6.12.宇多川の涸渇
6.14.中村ガソリンポンプ試運転

大正5年福島新聞
9.8.幾世橋火災義捐金御礼広告 九月三日 第三回分 金壱円 水貝廣巳

大正6年 福島日日
1.6.海難頻々 相馬海岸 大みか堤谷
1.16.小高町の火事 渡辺乙松方
3.29.紺野重忠氏村葬 大みか村

本町火事 大正7年

処で失火泰平と思ひきや、大正七年四月二十日下町医師高野純ノ宅焼失、消防施設やや完備せるを以て延焼に及ばず、医院及び自宅のみでありました。その時や組頭佐藤貫良、組員指揮の最中、焼壁の下敷となり、生死おぼつかなかったが、諸医の尽力により生命だけはとりとめたるも不具者となり、再起せざるに至りました。
(笹舟)

原町市史の記述「大正七年の原町火災」
大正七年四月二十日夜半(午前一時頃)下町医院高野順氏宅より発火し、折からの北風にあおられて火勢は猛烈を極め、原町はあわや大惨事となろうとさえ思われたのであったが、消防組織や器具の類もやや整っていたときで、消防組員の奮闘と組頭以下の指揮よろしきを得て延焼を防止し、大火をまぬかれることができた。
しかし時の組頭佐藤貫良氏は、この猛火を見るや危険もかえりみず先頭に立ち、組員を督励して防火につとめたのであったが遂に不具の身となり、両足の自由を失ってしまった。氏は大正四年七月二日原町消防組頭に就任、大正八年一月十六日退任したが、退任後は原町消防顧問の推され、一生を通して原町消防組のために尽力したかたで、原町消防の鏡と仰がれてきた」

この文章の詠嘆調は、種本の笹舟の美文調の文章のかおりがかすかに残っている。原町市史の「消防史」の項目も、戦後を除く前半の部分は笹舟からの引用をベースにしているものの、笹舟の記録から「情報」だけを取り出すつもりが、筆法まで引きずられ、戦後の加筆部分は、ことさらに事務的な記述で、全体が木に竹を継いだような不整合なものになっている。笹舟を未消化のまま採用したゆえである。
しかも、笹舟が記述した明治14、15年の大火を、そのままではなく、詳細な内容も含めて15、16年としるしていることからも、この部分は役所に残っていた公文書をもとに記述されたものと思われる。こうした痕跡から、たとえ役所の火事で焼失されてしまったとはいえ、逆に原町市史の原典資料に何を使用したのかが推察される。

大正7年福島日日
1.12.中村消防出初
2.19.中村消防とガソリンポンプ
12.12.石神火事 藤原宅 民報
大正8年4月25日、大字江井より出火、十戸焼失、損害八万円、原因汽車の煙突より飛火
(福島県消防史)
大正8年4月12日ころ西北風のひどい日であった。貨物列車の火の粉が民家に飛火し、大風にあおられて農家十戸を灰じんに帰してしまった。被災の家は中野平記(火元)、池田定吉、馬場モト、松本勇助、松本清助、牛来庄治、宝玉直己、田中国広、寺内春治、宝玉源助の諸家であった。(原町市史p1446)
日付が全く異なるのはなぜか?

大正8年福島日日
5.14.相馬の消防 民報
5.30.中村町地方に頻々たる放火
6.10.中村放火
民友8年
10.10.中村町の大出水 6-7日

大正9年民報
1.7.電力合同
1.7.原町住宅建設 今村氏の苦心により50戸 3万5000円 利子年4分8厘 償還15ヶ年
1.8.相馬子邸 出火
1.21. 中村青年決起 福相鉄道問題
1.27. 蛇の子を産む 中村
山田貞策の生家訪問

2.15. 中村放火 民報
2.16. 相馬子追悼一周忌
2.24. 原町紡織好況
2.28. 中村の新市街 道路実測を開始
2.29. 相馬消防大会
2.29. 相馬港造成 相馬消防大会

3.2. 中村町会
3.2. 中村地方の積雪二尺 23夕から29夕まで
3.21. 中村補修業式 写真結婚花嫁は検査にはねられぬ様に
3.22. 相馬高女卒業者 新設電話計画(新地)
4.20. 中村選挙注意
4.28. 原町清潔日割り
6.16. 大田川に転落
6.22. 少女又溺死 太田中太田
民報 9.6. 浜通りの暴風雨 新田川大氾濫 原町浸水家屋数十戸 農作物の被害甚大
11.6.中村で招魂祭
11.6. 中村で招魂祭
12.9. 原町地方の積雪二尺

大正10年 民報
1.5. 原町新年式 一月一日午前九時半より尋常小学校に名刺交換会挙行 二百人 今村敬明
原町出初式 二日午前三時
1.21. 原町徴兵適齢 在住四十名、寄留者含め54名
2.3. 組合分離の解決
3.24. 天理教会発火
3.18. 黒木の火事で相馬高女美挙
4.4. 昨朝原町の火事

5.3. 原町区長会
5.9.形勢混沌 原町町議戦
6.23.  中村初町会
9.30.原町屋上協議
10.13.新田川氾濫して原町一円水浸し 十日雲雀ヶ原より押し来たれる洪水は新町本町旭町の一部を除くほかほとんど水浸し

大正10年福島日日
4.5. 深夜放火から 原町南新田七棟焼く

1.8. 小高大火の二十三年忌 新派喜劇招聘 小高座で寄付集め木戸無料 1月5.6日
1.25. 危険で寄り付かれぬ 竣工は五月頃か
2.10. 無電局送信危険防止  酔漢井戸に墜ちて溺死
6.24. 原町小火 夜森前 長谷川岩次郎方炭捨場
9.10. 太田原町間列車不通 出水で
11.25. 無電局で小火
12.24. 相馬中学寄宿舎全焼す

大正の原町大火

大正十一年三月十一日夜半、火元本町二丁目小仲屋旅館、原因は不明(故ありて)とあるも、実は航空隊の一部、宿泊し居るの時、火を漏したものでありました。
損害額四十三万七千五百七十二円也
外ニ電話器十四個。自転車十二両。
罹災者百三十一人、焼失家屋八十三戸。半焼四戸。
その後同三十一年四月、県令第十一号の一、億畳制限規則により大正十一年十一月一日組合を組織し、実行したる結果不燃質物の屋上多きに従ひ、漸次火災の憂少なくなりました。而して常時活動の状況として、春秋二回消防演習、冬季火防督励(役員各番)海水浴場警備
(笹舟)

大正11福島日日
1.10. 原の町出初式 高平の小火
1.17. 立木を盗伐 太田村牛来字久保和田次郎外六名
1.25. 燐寸一本から七棟を全焼す 相馬郡高平村の火事 高平永次郎方の納屋
2.10. 原署管内消防組幹部大会 高平安八
2.16.平と双葉に豪雨 死者221名
2.19. 双葉相馬までも死傷二百に達す
2.25. 常磐線水害から開通
3.19. 未だ原町大火原因判然せぬ 極力調査中
3.23. 原町大火の原因判明 雲雀ヶ原で最終飛行演習
3.26. 太田村長村葬 都田一氏 23日死 25日岩屋寺

4.4. 原町長逝去 今村敬明 原町消防検閲
4.7. 原町の火事放火か 本町一丁目旅人宿小泉屋
4.9. 夜警慰労会原町で開催
5.2. 浪江の大火 十二戸七棟を全焼す
8.17. 中村消防組 広告 町長 郡長

大正十一年三月の原町大火は殆んど町内の三分の一を烏有に帰せしめ二人の焼死者をさい出した悲惨事であったが十六日はその十年忌に相当せるため堀川組頭を始め原町署員並に消防総出で火防宣伝をした
(民友・昭和6年3.18「原町短信」)

大正12年 関東大震災おきる
p1.7.中村火防宣伝
2.21. 原町消防検閲
3.2.原町鉄骨火見櫓協議
福島新聞
5.5.連合観桜会 原町警察署と原町小林区
6.19 夜ノ森公園の旅舎で 男女の事務員が情死 破境の裏に秘められた仮寝の夢
6.13.逓相平局で訓示 歓迎宴を終へて原町へ
6月10日、岡田逓相、平に寄って原町へ午後三時三十八分出発
7.29.暴行消防夫有罪 町長と町政問題にて 鹿島の喧嘩
9.28.県会 相馬区第二区
当選鈴木重郎治  千四百七十八票 (政再)
落選佐藤政蔵   千五十三票 (憲二)

浪江町近代百年史
相馬市史
大正13年 大原大火

民報2.10.石神の大火
残るは林県議宅と郵便局で三十九戸七十四棟全焼

大正13年二月八日、大字大原、小滝留治方より出荷、七十五戸焼失、損害二十五万円、原因炉より飛火(福島県消防史)
なぜか「社会科はらまち」には、大原大火を昭和2年としてある。

2.21.車夫に誘拐された女・元原町の花月館女中
2.22.初巡視の永富裁判所長談

大正13年民報
7.25.火星が近づく 8月2223日には三インチ位の望遠鏡でも月位に見える
8.28.中村町消防手の放火事件 公判
9.4.箪笥の中からダイナマイト 自転車窃盗狂の家を取調べた際に発見
9.24.遠藤上真野村長の葬儀

大正14年民報
2.6.原町消防幹部増員
2.13.原町火事 小火で済む 松永陶器店の座敷から原因火鉢
1.22.原町信用総会 夜の森に小火 夜の森前一番地 高橋末松方19日午前11時出火
1.25.燐寸一本から七棟を全焼す 相馬郡高平村の火事 高平永次郎方の納屋

2.29.浪江町の火事 馬が大やけど

1.8.はらまち消防祝宴 原町消防出初 四日 松永組頭、佐藤政蔵来賓挨拶 花月楼で新年会
3.8.原町の火事
3.8.原町の火事 六日午前九時半旭町青田製板所の煙突より洩たる火が隣家なる呉服店松永邦蔵の屋根に燃ひつき折柄の烈風に煽られて大事に至らんとせるを逸早く発見して消止めた
3.17.石神村の火事 北長野の古川貞喜一戸三棟全焼
p4.18.原署消防検閲の組員表彰
5.15.原町の十二校連合運動会 夜の森公園で
6月19日佐藤政蔵町長就任
7.17.相馬郡の公選有権者・門馬氏は立たぬ
8.18.あわや泥海 洪水攻めの原町 浸水は一千余戸
p12.14.原町の奉祝 奉祝の歌 原町消防副組頭に門馬氏 門馬昌吉から門馬永松へ
p12.24.相馬地方の暴風雨
大正15年福島毎日
1.17. 小高座で火防宣伝映画

福島毎日新聞 昭和2年
2.1.鹿島町の放火犯人検挙さる
8.14.夕 仏壇の盆提灯から失火して 八歳の少女惨死す 石神村の火事
8.31.原町地方の降雹

朝日 昭和2年
8.31. 町長をねらふ 原町政友派が
佐藤氏辞職の後を

昭和2年朝日
2.17.汽車の飛び火で林野五百坪を焼く 浪江小高間の珍事

11.19.廿日決戦投票 原町町長選挙
波乱を予想  既報相馬郡原町町長選挙については民政側はあくまで佐藤政蔵氏を推薦すべく結束したが中立の一角 ら商銀原町支店長志賀隆明氏を擁立、政友派また同氏を推薦すべ 形勢にあり町長選挙会は相当波 あるものと見られるが同町区長 部の名で佐藤政蔵氏を町長に推 すべく建白書を町会に提出し十 日一同連携辞職した

昭和3年福島毎日
4.4.大森消防組頭表彰さる

3.22.鈴木飛行士の郷土訪問飛行予告 囲み記事
3.26.鈴木克衛
4.4.大森消防組頭表彰さる
4.11.福島号墜落大破す 記事中 鈴木克衛のけがについての消息あり
4.12.近く郷土飛行を決行する鈴木飛行士
4.14.鈴木氏の郷土訪問飛行大会
いよいよ来る二十日より三日間
4.16.原町記念事業
4.17.夕 原町消防検閲 相馬農校蚕室落成

7.10. 落雷 福浦村では地引き網で漁労中に岩淵貞(51)即死
7.11.夕 相馬郡内の落雷 石神村では一棟全焼 高平村では娘が即死
8.10. 日本一だと誇る太田村役場
8.11. 日本一だと誇る太田村役場
10.9. 石神村火事 妻を焼く
12.21. 浪江消防幹部 排斥の烽火あがる
12.29. 浪江消防組合紛擾問題解決

昭和3年 朝日
9.28. 人口増加に伴ひ原町町議増加か

昭和4年民報
1.21.原町消防出初式盛況
2.24. 相馬郡高平村2度の火事騒ぎ
2.25. 連日の怪火 原町地方不安 二十一日来出火四件
3.5.南相消防幹部会
5.1. 夜の森の山火事 機関区か
5.26. 水の中に明した一夜 相馬地方惨憺たる被害
5.29. 福浦の干拓地作付見込立たず 今に至るも減水せず移住民四十戸の悲鳴
9.13. 井田川干拓 稲殆ど全滅

昭和5年
1.8.友 原町管内火災調査 昭和五年度火災十五回数損害一万五千七百九十円 原町のみ二ヶ年無火災 五日県消防協会より金馬簾一筋

12.17. 鹿島大火の真相
12.4. 相馬地方初雪 二日早朝

昭和5年 福島毎日
10.4.夕 南消防組合会開催
12.7.小高町の火事 馬一頭が焼死

昭和6年
昭和6年1月9日福島毎日
原町少年消防隊成隊式
相馬郡原町に於ける少年消防の成隊式は一月六日消防デーを期し午前十時から公会堂に於て挙行君が代の合唱に始まり規則の制定隊長及び総理の訓示、顧問(原町警察署長)の訓話等あり同正午前後に消防隊の万歳三唱を以て式を終り少年消防隊に二百八十余名は直に町内に練歩き火災警防に関する宣伝ビラを撒布した
2.18. 原町貧民救済の餅搗き
12.3.民報 原町消防組頭決定 堀川一正

原町消防歌
原吉三郎氏の原作
原町消防組では協会長原吉三郎氏の原作で左の如き消防歌を完成組員は勿論少年消防隊全帯・宣伝来るべき新年出初式から放歌し消防精神の真髄を全般に徹底せしむる事となつた
▽ 消防歌
1、 暁夢を破る警鐘に
例規の服装整えて
金の馬簾を先頭に
今日こそ晴れの出初式
2、 灼熱金をとかす日も
窓風肌を刺す夜でも
社会の為めに尽すこそ
我が消防の精神ぞ
3、 天地も焦す猛火をも
濁流渦巻く洪水も
我等は何をか恐るべき
憶えば懐かし我が命
4、 協同一致の活動で
築き上げたる励ましは
国見の山に輝きて
誉れは永く尽きざらん
(昭和6年12月24日民友)

昭和6年1月9日夕刊福島毎日
原町少年消防隊成隊式

昭和6年
昭和6年 福島毎日新聞
1.9.夕 原町少年消防隊成隊式 県内の名所を撮影して
1.8.原町管内火災調査 昭和五年度火災十五回損害一万五千七百五十円 原町のみ二ヶ年無火災 五日県消防協会より金馬簾一筋 民友
3.18.民友
原町大火10周年
10.20.夕 友 旧相馬の消防史 笹舟氏に依頼 やうやく脱稿

昭和7年 県消防史 別項

6.25. 原町長選挙
9.16.福島号を待つ原町 熱狂の大歓迎
戸毎国旗を揚げ愛国高潮昼夜旗と提灯行列
12.2. 上真野前村長 県当局をペテン 補助金を詐取

昭和8年
4.1.友 大甕村農佐藤正火事
6.29.夕 相馬郡七百町歩 田植不能

8.15.友 高平村長決定
9.9.夕 桑園被害

昭和9年 友
2.5. 中村の積雪
2.13. 松川村に怪物 あざらし現る
2.21. 相馬の烈風 小船転覆沈溺死 小高町で
2.26. 相馬の大火 磯部上真野村両村で43棟
4.21.夕 県下消防組大会 中村町の盛況成る
夕 今朝 中村町三ヶ所へ同時刻放火

昭和9年
2.26. 原町で2軒全焼 梅田武発火 阿部万作 上真野大火 23棟全焼

昭和10年
民友 10.3.11. 石神の火事 光井
民友10.5.29. 高平部落で田植え手止め
6.12.全国的折り紙付いた原町の欅工芸品
7.11. 原町広告

民報10年
3.27. 原町の暴風雨
6.23. 短波 降った降ったよひとつぶ十両の雨が
7.21. 佐藤朝山の名で自作を売りつける 実弟の木彫職が

昭和10年短波
8.15.鹿島町放火に四年
9.29.原町地方の水害
10.9.今年もまた凶作ぢゃ
11.8.大甕村に浸水家屋
10.10. 原町短波 消防秋季検閲

昭和11年 東京日日
1.7. 原町消防功労表彰
1.21. 須江新一氏宅不審火
5.1. 齋藤栄方 31日午前〇時頃発火
9.26. 大甕村遠藤秀松発火 子供の弄火
11.26. 小高町火事 島田安吉方
12.18. 久ノ浜平間で八十両牽引
12.26. 原町役場敷地決定 原町役場新庁舎敷地は23日の町会で原町西裏通り本陣屋跡に決定した

昭和11年
東京日日
4.8. 夜ノ森川原製糸工場 気関室から

昭和12年
2.20. 原町短波 消防幹部会21日旭座で
2.24.原町消防幹部会

昭和12年の原町短波等
2.20.原町短波 消防幹部会21日朝日座で

昭和13年
友13.7.10. 相馬郡の水禍激甚・収穫皆無地だけ百二十町歩・減収も数百町に亘る 中村地方また洪水 新沼干拓四百町歩浸水

9.18. 原町短波 原町地方の大雷鳴

昭和13年 朝日
7.1. 水魔・各地に凄い爪痕 常磐線で数ヶ所に
7.2. 渋佐地区桑園二町歩 水田十町歩が水浸し
11.6. 原町の怪火は少年雇員の放火

昭和14年民報
1.5. 原町の火事 一日午後十時 飲食店風間史さん(40)
2.28. 中村町大火 廿一戸全焼
3.26.東京日日 石神村の火事 大谷吉太郎方、子供の弄火 消防組連合検閲 東京日日
5.5.東京日日 小高町の火事

6.3.ポンプ購入 原町 八千円で自動車ポンプ
東京日日
12.5.東京日日 中村に初雪

昭和15年
4.5. 大風暴虐の跡 家屋倒壊各地に多数
大音と共に倒壊 原町地方も大暴れ

昭和15年 東京日日
3.21. 原町警防幹部会 東京日日
3.21. 金房の昼火事 太田の山火事
4.7. 大雪に桜も吃驚 中村地方
6.1.原町警防団では一、二両日第二回の雲雀ヶ原聖地作業に奉仕
6.21. 原町繭検定所焼く 県に引渡したばかり

16年昭和16年 東京日日
4.29.石神村の山火事 七日午後一時 二町歩 東日

17年民報
2.7. 警防団意気高し 原町方部の査閲
2.14. 原町警防団新陣容成る 大島一郎 副から
3.18. 中村の火事 煙突から

昭和18年
8.19.相馬家宝焼く
10.5. 石神の火事 二谷フジ
11.9. 相馬木工の火事

昭和19年 毎日新聞
2.3. 損害八十万円 中村町の大火
2.4. 中村町大火の損害状況  原釜大火 太田村の火事 高木久助
2.23. 防空小区設定 近く四市二町に 中村も
3.3. 防火街になる原釜
6.28. 鹿島火事 北右田今野政敏
9.15. 相馬郡堤防決壊

昭和20年
7.20. 学生列車の機関士が米軍艦載機の空襲により負傷。
8.9.米機動艦隊艦載機による原町空襲で、町内各所に火災発生。原町紡織工場が夕刻、突如として黒煙を発し、七日七晩燃え続けたという
8.9.空襲つづく。
11.28. 原町警防団表彰
昭和24年
24.4.17. 原町で七棟焼く 16日午前9時半渋佐で

昭和25年

? 市町村だより 相馬 ▽郡下の報道を専らとする「フクシマ通信」が生まれた、当分旬刊、発行元は原町三島通りフクシマ通信社、社長は斎藤司、編集主任は山本久吉氏 友?
9.21.友 相双二郡に激浪 四堤防決壊 損害千五百万

昭和27年
4.16.石神で火事
7.30. 石神牛渡勝身校長宅焼く
9.2.太田秋の助、立候補辞退
11.17. 小高で12棟焼く
小高町塚原 平田安吉24

昭和28年
12.14. けさ原町小学校焼く
12.24.けさ原町小学校焼く 八教室・二百坪

昭和29年
12.15.高潮 原町市を襲う

昭和31年
2.26.高平中消防隊 栄えの竿灯受賞

昭和32年
7.16.夕 昨夜原高焼く
7.18. 石神二小に放火  原高の火事と関連か
7.19. 原高火事で問題化 なかなか出なかった交換手 発見から15分もかかる
7.20. 原高放火説に傾く
9.12. 原町高校校舎復旧など県予算

昭和33年 台風22号
原町市は、なぜか36年の写真を使用している。

昭和36年
4.25.強風下、飯舘村で大火

昭和37年
37.6.2. F88墜落 火だるま

昭和38年
38.2.9. けさ映画館を半焼 文化劇場
39.7.16. 原町一中火災は放火 試験苦にした少年

42年
42.4.16. 今暁原町市役所焼く
4.18. 失火の線強まる

昭和43年
7.23. 報 原町では小学生解禁前に泳ぎ、心臓マヒ
12.30. 三日成人式

44.7.20. 公害対策が本格化

47年
特急ひたち開通
栃東が平幕優勝

48.1.7.百年間の無火災記録 相馬市の横川部落
48.8.20.原高でボヤ
48.2.22. 相馬市役所焼く 21日未明
48.8.7. 不気味な地盤沈下

49.8.14.消防署が遠すぎる 移転論争再燃の原町
11.1. 地盤沈下
10.1.8.なんと7億円も灰に 相馬地方の昨年の火災
5.1. 高の倉ダム本体完成

54年1.28. 原町の水道ピンチ 夜間制水に24日から当分の間

58年
12.7. 鹿島の大火記録 柴田勝房さん所蔵

昭和62年
5.12.山火事の怖さまざまざ
5.17. 大原林野火災の概要

平成23年 3.11 東日本大震災起る

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