思ひ出 半谷六郎

第一次欧州大戦勃後の頃は、余は父の膝下を離れて東都にあった。大正四年四月、父が五十八歳の春、久方振りに小高の地を余は踏み占めた。それは父や肉親に無言の謝する帰郷の旅であった。
父子の談は偶々勃発間もない欧州戦に及び、父は世界地図を両人の間に展げて、言々火を吐くやうな戦争論、東亜論になった。
「欧州大戦は当然こきに起るべきものであったのだ」さう言って父は欧州を指さすして、東亜を、しかも支那を示した。
「欧州諸国が普仏戦争以来、表に平和を装ひながら、秘密裏に数十年来軍事に狂奔してゐたのは、自国ではなく、彼等の物質欲を満す植民地獲得のためであった。それは彼等の発展史を見ればすぐ分る。しかし既にアフリカに、年米に、そして東亜に両度は獲得分割されてしまった。残ってゐるところは何処か、ただ支那がこそ彼等の垂涎羨望の地なのだ。その意味から支那こそ次の世界制覇の大噴火口なのだ。かうして植民地獲得のために蓄積された軍備が、偶々欧州戦において費消されるやうになったことは、皇国の前途のために、また東洋平和のために喜ぶべきことである。だが、これは支那の噴火口が消滅した事にはならない。
ただその噴火が先に持越されたに過ぎないからだ。
アメリカは漁夫の利を占めたとて、きっと参戦するだろう。そして惜しい哉ドイツは制制せらるだらう。そこにアメリカの絶大なる野望があるのだ。この戦争で疲弊した大英帝国に代わって世界覇を唱へるのは、国富を一手に引き受けたアメリカであることは違ひない。そのアメリカが東亜への本格的な侵略の次の段階なのだ。その証拠には次の段階なのだ。その証拠には既にアメリカはフィリッピンを攻略して東亜への拠点を作ってゐるではないか。アメリカの強大こそ東亜を危機に曝すときだ。この時日本はどうするか。過る日清、日露の両戦役は日本の東洋平和への祈念の外ならない。若し支那に支那分割の争奪戦が爆発した時、これを見捨てて置けようか。
日米戦争、これは太平洋を中心に当然考えられることだ。アメリカに限らない、これ以上東亜に侵略するどの帝国をも、許すことができないのだ日本の立場だ。支那の舞台は現在後回しにされた。だが次の段階こそ日本の建国以来の決戦の時でなければならなぬ。それにつけても心配なのは、いまの日本が多少欧州戦争の影響で景気がよいからといって、欧米文化、いや物質文明に陶酔して、愈々三千年の伝統性を忘れようとしてゐる。日本の将来の地位を解するもの幾人ありや」
今でも余はこの時の父の悲痛な気色が面上を覆ったことを忘れることは出来ない。この父の卓見もその頃の余には本当に理解されるまでに至らなかった。父が天稟の才能を持つとは思はれない。だが常にその観察力の正鵠なことには驚かされていた。一師範の学業を卒へた一農夫の父が、どうしてかうも深くしかも意表外な判断をしたか、いまでも不思議だが、考へてみれば、これはただ真面目に自己を物のなかに忘却した境地から生れ出るものではなかったかと思はれる。安政五年に生れ、昭和七年に寿を全うした父の生涯は、郷を思ひ、郷に生きたもので、そのためのこそかれの卓抜の意見も、時として一地方人の言として世に用ひられるところがすくなかったことは現代日本としても、惜しき限りだ。
父の趣味は、読書と談話と地方行脚だったが、いちばん父の喜びとし、生けるしるしあったのは大地に親しみ、額に汗することを使命としたことであらう。
「自分は名聞を欲しない。又自分の意見をとくに用ひられんことをも望まない。だが自分の意見がそのために時機を逸して、何の役にも立たないことを憂ふる」
と漏らされたことがあった。常に口癖のやうに言はれてゐたのは西洋心酔の時流のことで、その点では道真の和魂漢才のことを自分の標榜としてゐられ、その軸も床の間にかけられてゐた。
「お父さんの意見は惜しい哉、あまりに時流に先んじすぎる」と、これが余の常に悲しみとするところであった。しかし今はもうかうした流水のあとを追ふの嘆をしまい。
今や、大東亜戦争の輝かしい歴史は、父の言葉の通りになりつつある。いまこそ日本人は誰と彼とを問はずに、一意三千年の伝統を傾けて、死命を拠って新しい歴史の執筆にかかってゐる。
宇宙創造の天意を正解して、肇国の精神を筆太に描き出してゆく、大日本の正姿を見て。さぞや父は泉下に微笑を投げてゐることであらう。
著者伊与田氏に請はれるままに、肉親のものが、語るに落ちるをさけがたいとは知りつつもその機を恵まれて、亡父の一端を筆にした。

昭和十八年十一月二十二日

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