米作立国を批判

奇しくも、この「将来の東北」の著者である半谷清寿という人物の生まれ故郷相馬郡小高町で、意外な人物が語る似たような論を聞いたことがある。
話の主は、作家の島尾敏雄氏だ。
昭和五十六年に、島尾氏は作品「死の棘」で芸術院選奨を受賞し、その記念もあって両親の出身地である小高町を訪問し、座談会の中で次のような話をした。私もパネラーとして島尾氏、鈴木町長、半谷議会議長らと座談に加わっていた。
「私は、東北が米作を取り入れたというのは、歴史的に見て大きなマイナスではなかったかと思うのです」と島尾氏。
島尾氏は、もともと病妻物シリーズ等でおなじみの、いわば私小説作家の範疇に属する。
だが、その一方で、長く居住した奄美大島といった南方的な視点を自らのものにするに至って、日本全体をヤポネシア群島とみる巨視的文明論を提唱し、南方の異文化圏としての琉球弧の中の奄美大島と、北方の異文化圏にあたる東北とが、日本全体にとっては似たような立場にあり、中央に対して独自に共通するものがある、といった論をなして、数冊の比較文化をテーマにしたエッセイ集として発表している。
弥生文明とでも言うべきヤマト民族の文明系は、米作を中心としたものであり、明治以降までこのシステムは基本的に変わっていない。
東北が異文化圏であるにもかかわらず、ヤマト民族の米作中心文明を受容したがために、長く自己表現の機会をのがし、低開発地域としてのレッテルを貼られたままの悲劇が、いわば東北の歴史そのものなのではないのか。
島尾氏の論調は、おおざっぱに言ってこのような内容であった。
島尾氏は、大正六年に横浜で生まれている。戦後福員して父とともに神戸に住んだが、これも半谷清寿の存在と無縁ではない。
島尾氏の父親は、絹織物の貿易商であった。島尾が年少期に暮らした横浜、神戸という土地は、父の職業と外国商社との関係からきたものである。
しかも、小高の絹織物こそは、ここで問題にしている半谷清寿という人物が東北の可能性を実業に賭けた一つの具体的な姿なのである。

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