安着の手紙とホームシック
福島県相馬郡中村町(現相馬市)に八月二八日到着した長崎第五国民学校(現千早小学校)五年の真板久子は、二七日、父親あてに手紙で「私たちは無事にたうちゃくしました」と書いた(真板栄一編「疎開の記録」六頁)。それに対し同じ二七日、姉の昌子は「ちゃあちゃん元気でそちらへ着いたことでせう。忠ちゃんは明後日、岩滝へまゐります。あなたと注ちゃんの根気比べです。きっとちゃあちゃんの方が勝つと思ひますが、しっかり頑張って下さい」と書いて励ました(同前)
二人の弟である二年生の忠右は、母の実家の京都府与謝郡岩滝町へ縁故疎開したのである。父栄一は「久子 安着の新聞を見る迄は皆心配して居た。夜中に目が覚めて「無事に着いたら今頃疲れて夢でも見て居る頃かなあ」と考へて居たら三時が鳴った。虫の声が秋を告げて何となく物悲しい」と心境を書いた(同前七頁)。
同時に「皆と仲よくするには、気分を明るく持って、いつもにこにこして居ること。気の付いたことは、人より先にすること。物事は「ていねい」にすることだよ」と諭し、字の注意をし、「葉書に間違った所があれば注意するから時々出しなさい」としている。(この注意は実際に、ずっと続く)
久子は九月一日父あての手紙で「きのふお手紙がつきました。その前から松井さんたちは、毎日のやうに手紙がくるので、うらやましがってゐました。すどうさんが「真板手紙が来たぞ」といったので、私は喜こんでうけとりました。その時はとてもうれしかったです。兵隊さんが手紙をもらって喜ぶのがはっきりわかって来ました」と述べた。(同書九頁)
こうして、福島・東京・京都と分断された家族の、手紙によってつながる生活が始まった。
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