思えば昔天明に 続く天保年間大飢饉
来る年も亦来る年も 真冬の如き冷害に
農作物は何一つ 実のなるものは立ちぐされ
たてて加えて長雨は 飢饉の年につきものか
何時晴れるともなく降り続く 妖雲広くたれこめて
昼尚お暗く領民は 憂鬱な日に明け暮れる

この年信州浅間山 噴火のために降ってくる
その毒灰の恐ろしさ 悪天候と食なくに
悪疫までも流行し 日に細りゆく領民は
飢と病に死んでゆく 生きんがための身もだいの (身もだえの)
人は大地の先は血に塗(濡)れ さまよう人の浅ましさ
村てう村は煙絶え 人なきままに狐狸が住む
屋内にさいも雑草の 餓死せる人の白骨に (さえも)
おいかぶさって蔓が張る この悲惨なる凶荒に
憐れ相馬の人口は 只三分の一となる

高田竜峰こと高田某氏は、明治から昭和まで相馬の民謡民舞の研究家にして振興の文化的指導者であった岡和田甫の熱烈な信奉者だった。
「温故知新 中の郷における報徳会」という手作りの著書を、彼に見入って通い続けていた若い僕に、後世を託して渡した冊子の題名である。
高田氏は、身体障碍者の会のメンバーで、高齢で盲目の恩師岡和田の追随者として何くれと世話をしていた。その死後は、さらに岡和田の偉業を広く伝えたい気持ちからであったろう。自費での冊子に、恩師の作品を紹介したかったのだ。

ところが平成の世になってから、この義民の歌が、こともあろうに法廷に引っ張り出されたことがあった。
南相馬市の合併直前の、原町市時代の、史上初の著作権を巡る裁判の場に問われたのである。

つづく

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