原町小学校に私が勤めるようになったきっかけは信男(のぶだん)先生がつくってくれた。「校長に話したら一度会いたいとのこと……」という文面の葉書が、最近古い手紙の中から見つかった。
 昭和二十五年の四月、高瀬川渓谷の奥の大堀小学校の分校やめてを、上京しようと考えていた私が、敬愛する詩人の詩碑建立のことに専念して、半年を費やしてしまっていたころであった。原町市役所に勤めていた叔父の勧めもあり、上京して就職できる確かな宛てもなかったので、草野校長に会い、採用となったのだった。
 おかげで、原町小学校に三年半勤め、北海道に渡った。
 お通夜にも葬儀の日にも、多くのなつかしい顔が見えた。信夫さん、吉津先生、角南さん、大沢先生、大和田さん、大石先生夫妻、周子(ちかこ)先生、きよ先生、林先生など、今はそれぞれの風格を備えて焼香のときをすごした。六十余名の教職員を抱える県下一のマンモス校だった原町小学校では、同姓の先生が多く名前を苗字だけで呼んだのでは区別がつかない。
 たとえば鈴木信夫と、音では全く同姓同名なので、信男のぶだんさん、信夫さん、と呼び分けた。
 門一もんかつさん(門馬一男かつお)、門光もんこうさん(門馬光雄)もいた。周子ちかこ先生(斎藤)きよ先生(斎藤)、松本も二人いて、私は哲夫先生、もうひとりは安子先生と呼び分けられた。なにしろ先生の数が多いので、自分の学年以外の先生の名前は知らない子が多かった。
 
 

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