昭和史への旅
  第三章 「幻の皇紀二千六百年 原町紡織工場と原町陸軍飛行場」より

 十月二十四日。海友会(旧海軍関係者の)会員などで組織している中野磐雄少尉顕彰会が、夜の森公園で慰霊祭を行った。
 中野磐雄少尉の命日は十月二十五日である。どんなふうに死んだかと言えば、二百五十キロ爆弾をゼロ戦にかかえて敵艦に体当たり。
 壮挙といえば壮挙。誰にでも出来る事ではない。
 慰霊祭当日、夜の森公園の丘の下では相馬農業高校の体育芸能祭(運動会)が行われていた。
 海友会員が用意した日章旗と海軍旭日旗を掲揚するのに「海ゆかば」をカセットテープで鳴らした。恭しく戦闘帽をかぶって、国旗に直立不動の姿勢で向っている姿は、一種異様に見えた。さっきまで付近で見守っていた子供づれの若夫婦が、ニヤニヤしながら視線を注いだりそらしたり。下から、スピーカーいっぱいに「史上最大の作戦」を鳴らしているのは、かつて軍国主義教育一色であった相馬農業高校の運動会である。
 世の中のへんてんはにかかわらず、中野磐雄少尉の行為は壮挙であると私も思う、
 だからこそこうして、同級生やら戦友やらが、あたたかく命日に故人をしのんでいる。
 だが、建立された銅像の顔は、いかにも軍神といったもので、写真で知っている柔和な顔の中野少尉とは別人のように思われた。
 私は、あの柔和な表情の中野少尉という人が好きだ。子供と気さくに遊ぶような、永遠の青春のままに死んだ人物を、同郷の若者として愛する。
 しかし、彼について「散華」と表現したり「神鷲」と呼んだりする当時の新聞上の言葉には、全く実のない、空しい響きだけを感じてしまう。
 初老の、海友会のメンバーには、奇妙な清潔感があった。たぶん、観念としてだけ存在する青春を、彼らが持っていたからなのだろう。
 海軍という特殊な組織が、他人を排斥しながらも他人には干渉しない、一つのイズムを持っていることが彼らを浄化する。
 遺族というものとは違った雰囲気の、慰霊祭であった。少人数の親睦会が始まろうとしていた。私は退去した。

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