軍神 中野磐雄少尉

  昭和十九年十月二十五日、第一神風特攻隊敷島隊にその一員として参加突入して、敵艦を爆沈、勇ましく散華、国家に一命を捧げた軍神中野磐雄少尉は、福島県原町市の出身である。 
 私が、福島民報を定年退職した昭和五十五年四月のある日、東北電力原町営業所次長を同じく退職した同級生、大島基重君から「当時原町や、婦人会などで中野顕彰の建碑計画を進めていたが、終戦となり、その後立ち消えになっている。われわれの手でいまやらないと誰もやるものがいない」と相談が持ち込まれた。
 早速、同級生の渡辺病院長ほか数人と相談したとじろ「ヨシやろう」と、第一回打合会を四月二十五日、原町市文化センターで開き、同級会を六月七日開くことになった。
 四十年ぶりの同級会で、小中約九十名も参加、久しぶりの再会を懐かしみ、席上、中野磐雄慰霊顕彰会を結成、募金運動を行うことを決めた。
 その後はご承知の通り事務局を中心に各方面にご協力をお願いし、まったく短い期間内に目標達成、昭和55年十月二十五日、中野君の命日に除幕式の運びとなった。
 この機会に各位のご努力と、ご協力を賜った皆様に暑く御礼を申し上げます。
 この間、ある人から嫌がらせの投書もあったが、幼いとき学び、遊んだ夜の森公園にレイテ島の砂も台座に入れて、胸像が立派に完成した。
 それから一年目の昭和五十六年十月二十五日の命日を前に、急に文集発行となった。
 資料を集め編集に入ったが、中野君が、体当たり特攻作戦に進んで従い、身を鴻毛の軽きに置き、自ら日本の国難に準じたとき、脳裡に去来したのは一体何であったろう。
 おそらくは断ち難い生への執着と、肉親を思う心であったに違いない。如何に没我帰一、滅私奉心を教えられたとはいえ、わずか十九歳の若い生命を断ち切る事は、余りにも無残であり、また悲しい運命であった。
 こうした祖国の安泰と、殉国の精神、両親兄姉に対する愛と死との葛藤を心に抱いたまま、レイテの海深く眠ることを思うとき、その心情たち難く、涙が頬をつたわりペンが一つも走らなかった。
 海軍兵学校出身と、学徒出身の予備士官でことごとく差がつけられた、一兵から昇進した特別士官、甲種、乙種の差別など同じ士官でもこの三つ巴となって終戦まで尾を引いていた。日本人の島国根性、利己主義、責任回避など、了解に苦しむ大きな疑問も発見された。
 しかし、日米両軍の発表を見ても、敷島隊の壮烈きわめる突撃は大成功をおさめての大殊勲であり、英霊も莞爾として死についたことと、冥福を祈りながらペンを取った次第である。
 戦争の悲惨さは永久に忘れてはならない。
                      斎藤文雄

Total Page Visits: 12 - Today Page Visits: 0