311の大震災が起こった日の午前。群馬の友人高野光雄氏から小包でノートパソコンが郵送されてきた。数日前あたりから使用中の私のデスクトップ・パソコンの調子が悪くてメールや原稿を書けなくなった状態を速達で知らせた手紙への返答として、友人が気を効かせて手持ちの機械を送ってくれたのだ。
彼は南相馬市原町の生まれ。1960年に兄二人の二夫婦とともにブラジルへ独身で移民したが現地で満州生まれの日本人の夫人と結婚。南米のインフレと経済事情には苦しまされた。1990年の外国人労働における日系人の入国資格の簡素化で、出稼ぎ労働者として平塚の家電メーカー工場で働いたのを振り出しに、夫人とも通訳を務め、のちに群馬県大泉町で日伯学園というポルトガル語の学校を創始した。ブラジル同朋や子弟たちの日本社会への適応に役立っていた。こうした目的に賛同する企業からの支援で外国人貧困家庭に対する食品や新品だが在庫調整で型落ち電化製品のノートパソコンの寄付などもコンテナにどっさり置いてある。そのパソコンを送ってくれたのも、地方で気ままに文筆稼業の好きな生き方で経済生活に縁のない国内難民のような私の貧乏な境遇に同情してくれたのだろう。
けれどもその日の午後に突如として激震が起きて、テレビからはCMが消え、三陸を襲った大津波の緊急ニュースの驚くべき画像が繰り返し放送されるようになった。
不思議なタイミングであったが、ありがたく梱包を解いて電源とコードをセットし、ネット情報をリアルタイムで検索し始めることができたのである。
その後の数日の驚天動地の出来事について、冷静に振り返ることができるのも最近になってのことだ。あまりに生々しかった記憶は痛みなしに思い出せない。
記録のメモをたどりながら、忘れぬうちに時系列を辿って出来事を列挙しておく。
あの日、私は蓬莱クリニックという透析治療専門病院のベッドの上で左腕に二本の太い針を穿刺された状態で血液チューブと人工腎臓の機械につながれたままベッドに横たわった格好で、大きな船のうねりのような動きでベッドごと左右に揺られ、30床の広い病室のここかしこで金属の検査器具やガラス容器が倒れ落ちて割れる音などを聞きながら、危機に対処する看護師たちの駆け回る動作を見守るほかなかった。
頭上に掛け時計があったので、それと気づいた武田という看護師がすばやく布団を私の頭を覆ってくれた。最初の地震は断続して5分も続いただろう。その後も大きな余震がずっと追いかけるようにやってきて、安堵する余裕もなかった。
一般の患者は一回四時間の透析治療が行われるが、この日は三時間できり上げられた。そうしないと電気も水道もインフラの状況が不安である。一人の一回の透析にはきれいな水が150リットルも必要で、不足するかも知れず、この病院の地区ではじっさい水道の幹線が壊れて数週にわたって出なくなった。
地震は金曜日。私の次の治療日は月曜だが、「薬品など医療キットのストックは十分ですが水が問題なので治療ができるかどうか分からないので」と医師の説明だが、係りの看護師は「後に連絡入れるから待機するように」とのお達しだ。
福島市郊外のこのクリニックから市内の住宅地まで、小型バスで運転手が送迎してくれる。夕刻、帰る道の交差点の交通信号は停まっており、電気が通っていない状態であることを知った。家が近づくと、住宅地の軒並みの文化住宅の屋根から激しく瓦が落ちていて、ハイドロスプレーン現象のため、電柱が傾いていた。
非日常の恐ろしい景色。わが家のコンクリート塀も、所々が崩れていた。
自家の原町の電話も通じない。子供たちの家にも通じない。家族の安否を確認しようがない。テレビの緊急報道番組を眺め、推移を見守るだけだ。
家人の様子を聞いて、不在中の家庭のようすも判明した。妻はすぐにピアノの下に隠れたが、用心深い息子が「家の中にいたらかえって危ない」と外に出たという。余震がくるたびに息子と妻はそのたびに家から外に何度も避難したこと、飼い猫がパニックでベランダから飛び出して逃げ去ったまま夜まで帰らなかったことなどなど。
それから夕方の驚くべき映像のラッシュに、映画でも見ているような気分でテレビ画面に唖然として見入った。
気仙沼、三陸町、石巻などの津波の様子。極めつけは仙台市岩沼の仙台空港のヘリコプターや小型機や駐車場の自動車を飲み込みながら押し寄せる波。
しかし最も心を凍らせたのは、故郷南相馬野国道六号線まで達して、命からがらの下おおせた撮影者が自家用車を路上に乗り捨てて、近くの山の斜面を駆け上って救われたその画面に息せききっている息遣いや動悸まで伝わってきたビデオ動画である。福島市まで避難して来た視聴者が地元テレビ局であるFTV福島テレビ局に駆け込んで届けたデータを即時放送した映像だ。これは夕方のニュース枠で、福島市内の国道4号線バイパスが山崩れに呑みこまれた状況を移した絵とともに放映された。記者がいちはやく町にでて撮影し、昂奮しながらレポートしていた。目の前に土砂で埋まる道路があり、その先に福島県立医大病院がある。
その画面の場所の、山肌の斜面のすぐ下方には私たちの次女の夫の実家があるのだ。次女は横浜に住んでいて、首都圏の様子は電話が通じないので不明。津波の押し寄せた私の実家のある南相馬にも電話が通じない。ただ福島市内の飯坂の長女は電話が通じたが、頭に家具が当たって病院で手当てをしたと言って、夜になって我が家に来訪した。その夜は「怖い」といってわが家に泊まった。長女は珍しく14階もある高層マンションの12階の部屋に住んでいる。高層の部屋は凄まじい振動で、ジェットコースターのように感じるほどだったという。あらゆる箪笥や書棚の家具類が倒れて、頭部を出血して、防護ネットを被った痛々しい姿で「帰りたくない」と言って、恐怖の色を浮かべていた。
長女の夫が聴くところでは、階下で高層マンションが左右に揺れるさまは、棒が湾曲しながら撓んで見えたほどだったとか。
とうとう市外電話がつながらぬうちに夜が過ぎて行った。家族の安否は不明。
数日して横浜の次女から電話が来て、夫婦も孫も無事。機転を効かして公衆電話からかけたら通じたという。横浜の次女を起点にして各地の家族親戚の安否情報を伝達してもらった。平塚に勤める夫は電車が止まって、歩いて帰宅したという。次女は孫を連れて横浜駅にいた。関東大震災のイメージがよぎったという。
土曜日の朝。食糧がないし、ちょうど猫のエサが切れたので、すぐ近所のスーパーに出かけたが、店が閉まっており、駐車場に客が行列を作っていた。寒い空気の中であったが、机が出してあり、レジで会計していた。いちいち客に注文を聞いては店内に商品を取りに行く。キャットフードだけは外にあった。要望が多かったのだろう。あとは店内が崩れた商品の状態で買い物するのは不能だという。カードは使えない。すべて現金のみの決済。もちろん飲料水も皆無。きのうのうちに食パンも、すぐに食べられるものも皆無。
コンビニでもパン類とミネラルウオーターと飲物が最初になくなった。
空き棚が印象的だった。
買い物に出かける前に、「風呂も水道を出しっぱなしにして、また入れ物にすべて水を汲んでおけ」と妻に言いわたして出かけたが、帰宅して来たら、「まだ水は出るから水は汲んでいない」という。しかし、すぐにちょろちょろと水が細くなり、やがてでなくなった。
「あら、どうしましょ」と妻。腹の底から怒りがこみあがってきたが仕方ない、そういう人だと結婚いらい知ってはいるが。
翌日から水をもらに息子を連れて朝の5時から支所に並んで、給水車から分配を受けた。2トン車が2台で仕事しているが、水がなくなって何度か給水所に補給しにゆく。
そのたびに列が緩慢な進み方になる。
イライラしてもしようがないのだが、えんえんと待つ。
一週間は並んで飲料水を貰った。
本田和子さんの地下水と、渡辺家のこうさんの井戸から水をもらった。
近所の水道管が壊れて、給水できなかったのは一週間。毎朝、役場支所まで給水車が運搬してきた2トントラックのタンクから貰い水で過ごした。
両手にポリタンクをぶら下げて支所の庭に輪を作って延々と二時間以上並ぶのだ。行列には、ほとんど中高年の男女が、あり合わせのポットや、麦茶の容器や、ペットボトルなどを持っている。
郡部でない市街地では普段はそれほど食料品をストックしていない快適な生活をしている。一端、自然災害などが起きると都市生活者はたちまち飲料水も食料も欠乏する。
いくつかの店をまわって必要な品々を探して回った。
開いている店を探すほうが第一だった。福島県内では普及しているヨークベニマル店大森店も同じだった。開いてはいても、人数制限なので、数分おきに数人ずつの客を店内に入れる。そうでないと、かえって混雑しすぎて整理できない。緊急の対処だった。
ハシドラッグで、紙皿やラップを買う。食事するごとに、水道の水が出ないので食器を洗えないため、食器に覆って使い捨てで凌ぐのだ。
原町の姉一家が福島市の我が家に来訪したのは12日。原発の爆発事故の直後だ。
しかし、一晩泊まっただけで、翌日の13日には母の様子も心配だし、そばにいてあげるために原町に帰る、と言って午前中に出発した。
日曜日なので、教会の礼拝に出た。礼拝の最中に強い余震が来て、礼拝がしばしば中断した。
教会には、子供幼い若夫婦や、女性だけの世帯など4家庭程が雑魚寝で合宿していた。いざという時の対処ができるだろうとの思惑だった。
礼拝の途中に電話で、原町の家族が戻って来たことを知らされ、すぐに帰宅した。
もうすぐ原町に入る八木沢峠の頂上に上ろうという地点でパトカーの検問があり、封鎖されたという。
戻れ、という命令だ。
月曜日と火曜日に、世界各地の友人からメールが届いた。
ポルトガルのカンポスさん。ブラジルの恵美子さん。スペイン・マジョルカ島の
23日、次の日曜日。高野氏が群馬から来た。兄を火葬するためだ。
兄だけが日本に残った。
群馬県の光雄氏に連絡が来た。
兄は双葉病院に入院していたが、自衛隊が各地に避難させた。
伊達市保原の山の陰の松岡病院に転院し、あっけなく直後にそこで死んだ。
3月ちゅうに、在京の全国紙がこぞって双葉病院の対応をバッシングした。
患者たちを搬送するものの、バスに詰め込んで付き添いの医師も看護師もいなかった。いわき市の体育館に運ばれたが、次々に20数名が死んだ。
火葬場の焼却炉は2つしかなく、一つは相馬市から来る津波被害者の遺体を焼くために常時フル稼働している。葬祭もできる大広間の天井が落ちていた。地震のままだった。電気は節約しているといって部屋は暗かった。そこで手持ち無沙汰で男三人が黙って待った。
昨晩は長兄の遺体に弟の光男氏と、その長男の光太郎が付き添った。
光太郎とはブラジル生まれで、日本の専門学校で学ぶために川口の讀賣販売店で下宿してはたらきながら奨学金を貰って通学した頃に逢ったことがある。
石巻に行ってきた息子の報告