沢先開拓7
息子の急病に祈る思い 石井トメノ

 私は昭和二十八年にここに嫁いできました、良く幼子を見ながら一生懸命働きました。ある日息子の信夫が急に腹が痛み出し床に寝ていましたが、私は仕事をしなければならず心配しながら外で仕事をしておりました。
 息子は時は経つにつれ痛みがひどくなるばかりでした。あの当時は津島には医者がおらず、車を持っている人はおりませんし、まして救急車もありません。
 私はとなりの五十嵐今朝治さんに頼み浪江の病院まで連れて行って貰うことにしました。
 おんぶをしてもらい、阿掛のバス停まで歩きそれからバスで二時間かかったと思います。その間息子の症状が悪くなるばかりで心配で心配でしかたありませんでした。
 渡部病院に行き、お医者様に腸捻転と言われすぐに手術をしないと危険だと言われ、祈る気持ちでお医者様にたのみました。
 無事、手術が成功に終わり一命をとりとめました。四か月後に退院することが出来ましたことが思い出されます。
 そのむすこも今は三人の子供に恵まれ私はその孫を見ながら今日も楽しく生きています。

沢先開拓8 家族の苦労着実に実る  大内秋二郎

 私は渡辺満さんの入植した後に三十三年に入植しました。
 三十四年より葉たばこ作りをしました。土地が不良で思う様にできなかったが一生懸命に努力したので一年一年良い葉たばこが出来る様になりました。その間家庭で開墾して畑を増やしました。
 三十五年に電灯が導入されてそれまで石油ランプ生活から解放されて子供らとともに歓びました。
 今は家内と二人で年金くらしで夢の様に時間がすぎさります。

沢先開拓9 我々が頑張って発展を  菅野一利

 沢先地区も開拓を始めて早くも五十年が経たちます。私もこの土地に生まれ四十年になろうとしています。
 開拓始まりの頃は話を聞いた位で現実的なことはわかりませんが、子供のころ、まだ家の周りには大木があり道路もぬかるみで木を横に引いて歩いた気がします。
 今では道路も拡張され舗装になり条件的にも大変めぐまれた所だと思います。
 昭和から平成に代わった現在でも、昼夜となく働いて開墾して来た土地です。これからますます発展させてゆく上でも我々が頑張って行かなければならないと思います。

沢先開拓10 苦労の峠ようやく越す  菅野留蔵

 田村郡常葉堀田渋内四番地にて昭和二年十月八日、父宗作母カツの四男に生まれる。女三人男四人の子供を残して父は四十二歳の若さで死んだ。
 母も四十二歳。それから母上も苦労、言葉や筆にあらわせぬ苦労続きで明日の食にも困る毎日でしたので私は十二歳の時小学四年で子守りに行った。
 一年五円、今の子供等はとても信じられないだろう。その母も昭和十四年五十二歳の若さでこの世を去った。俺が小学六年の時だった。
 学校へほとんど行かず家事の手伝いが毎日の仕事で苦労ばかりして来たおれだが、昭和二十一年十一月三日現在地に入植。食糧不足の時代、毎日夜昼なく働いてやっと現在の姿に成った。
 開拓組合より借入れ金返済のため出稼ぎで資金を造り、今は返済も終わり衣食住も安定したので苦労の峠は越えたつもりだ。その間家族にも大変な苦労をかけた。
 昭和二十七年妻と一緒になり、男三人女二人の子供もみな自立してほっとしたと思って自分を振り返ってみたら、早六十八歳に成った。
 酪農始めて三十年が過ぎた。今は若い人達にまかせて妻と二人で東北土木につとめて十年が過ぎた。
 その間会社旅行で日本一周したのが一番思い出に残る。
 これからも時代の波に乗り遅れない様に頑張って余生を楽しみたいと思って居る。

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