請願駅「桃内」の開設  小高町史p672
 この駅は昭和二十三年(1948)8月10日請願駅として開設された駅である。
 戦時中は現代のところに桃内信号所があったが、終戦後官舎の取り壊しにかかったので、何んとか此処を駅に昇格させたいと考えて居た。
 たまたま江井義隆が、仙台へ商用のために月に二回ぐらい行くので、仙台鉄道管理部とも話し合いをすすめ、請願駅なら実行可能との見通しがついた。
 そのころ、山下駅を初め、相当数の請願駅が開設されていた。桃内駅建設のために、地元耳谷地区をはじめ、旧福浦村各大字並びに村当局も、その必要性を道目支援体制に入った。
 戦後の資材不足のため多大の困難はあったが、個人的の寄付などもあり、全村あげて協力し、奉仕された労力も延12,000人に及んだ。
 浦尻、棚塩の北見、佐藤両瓦業者の協力をはじめ、福浦地域住民の力の賜であり、合併後の小高町には二つの駅が実現された。
 建設を物語る唯一のものは、功労者、江井義隆、天野秀延らを顕彰する報徳碑に克明に書き残され、桃内駅頭に建っている。
桃内駅 小高町史
明治35年の地元新聞に載った鈴木余生のレポート
○井田川たより
耳谷鰻の名は世に知られをり候も井田川浦なるものに至りては殆ど知る人無之全く世人に閑却され居り候
△ 井田川浦は相馬の南端福浦村にあり小高町を距ること里余、今津、耳谷、下浦、姥沢、浦尻角部内の各村落に囲にょうせられ一帯の磯松原を以て太平洋を境し周囲二里余の長汀は曲浦を形つくりをり候
△ 井田川浦は鰻を産し鰡、鮒、蝦、イサザ、アビコ等を産すること又甚だ多く特にこの浦の鰻、鰡等に候この味の美なるはこの浦の泥深さが故と申居候これなどを通して一年の産額一万円と」申候外に三十余町の塩田を有し候也
△ この地方重に農業に従事するは稍隠居株の人々に候然し井田川堤防に家を構ひて専ら漁業を営むもの有之、その数通じて二百四五十名に上り候
漁獲の方法はフクベ叩き(ウナギ筒)鰻掻き、地引、サシ網、迷ひ簀、蝦筒、投網等そして地引は重にイサザとアビコを獲迷ひ簀サシ網は鰡、鮒などを獲候、近来ヒラタ(板船)を盛んに造り候もどんぼ舟(桍木船)は尚甚だ多く用いられをり候
 ※鰡(ぼら) 稍(やや・ようやく)

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