原発避難 何も望まない、ふるさとに帰りたい
大和田順 (下津島牛の舌43)
 2011年3月11日、東日本大震災当日はいつものように津島診療所で関根先生に診てもらい、国分で弁当を買った。たまたまこの日が私の誕生日のため、レジのコンピュータが500円のサービスポイントを出し、儲けたと思った。寒く雪が降りそうな天気で、家に帰る途中原のミツ姉さん宅でお昼を食べ休んでいると、大きな地震が来た。嫁のひろみさんが「外に出て、早く早く」と大声で叫び、私は道路まで這って出た。建物はユッサユッサと大きく揺れ、ガラス戸がガタガタと大きな音を立てた。その後も揺れが続く中、原で過ごし、自身が落ち着いた頃自宅に戻った。家に危害はほとんどなかった。
 翌日、義妹の征子さんが浪江から孫娘夫婦と共に避難してきた。だが、娘の行方が分からず気を揉んでいて、軽く食事したのみで娘を探すためいったん浪江に戻った。後で聞いたが、娘は見当たらずそのまま川俣まで避難した。犬を連れていたので、避難所に入れず、車の中で一晩過ごしたそうである。娘は一か月後、津波にのまれ亡くなって発見された。

 なぜ避難しなければならないのか分からないまま、3月16日に長男夫婦と一緒に二本松方面を目指した。最初、太田小学校の音楽室で二晩過ごした。狭苦しくとても寒かった。そこで一緒になった赤宇木の伊丹希偉さんがストーブ2台と段ボールを調達してくれ嬉しかった。次に太田文化センターに移った。ここにはストーブがたくさんあり、暖かくて助かった。食事の味はともかく食べ物は豊富にあった。味噌汁がなかったため、息子は300人の汁物を作れる鍋を設えた。ボランテイアが大勢いて、避難した人の世話をしていたが、嫁の美恵子も「炊事軍曹」を務めた。
 一週間ほど過ぎた頃、家が心配なので息子と一緒に戻った。途中、山越しに見る太陽の色が見慣れない奇妙なオレンジ色に染まっていた。ひょっとして、放射能の影響かと気味悪かった。座布団や味味噌蔵じゃら味噌・梅漬けを持ち出した。下着や防寒具、毛布などは避難所に沢山届けられたのでありがたかった。

 80歳を超えているので、今更何かをしなければならないなどと言うことはない。しかし、避難したまま、何時までこの生活を続けなければならないのか。地域のことは隅々まで知っているのに、そのふるさとを追われて、何故知らない土地で過ごさなければならないのか。友達と茶飲み話をして遊ぶのが楽しみだった。それが出来ないのが淋しくて残念で身を切られる思いである。
 夫が死んで暫くは気が滅入ったが、七転び八起きしながら立ち直った。私は、今度も原発事故の災害も乗り越えられると思う。避難している人が皆、幸せに暮らせればよいのだが、中には立ち直れない人もいるのではないか。
 他に何も望まないが、ふるさとに帰りたい。次男の車で友人がいる仮設住宅を訪れると、昔話が出て、あっと言う間に時間が過ぎる。地域での生活はそれほど私自身の生活と一体のものだった。
 欲も何もない、ただ帰りたい。しかし、生きて居る内に帰ることは叶わないだろう。百歳を超えるまで生きないと無理だ。だが、何時かは帰る。私が死ねばそこが帰る場所だからだ。
 25.7.16~17聴き取り
 平成25年7月16日・17日聴取 3.11 ある被災地の記録

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