野戦病院のようだった

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南相馬 10日間の救命医療.
: 2011年12月29日 10:03 ·

 おもいもかけぬ3・11の大震災で明け暮れた。
 南相馬市総合病院の医師太田圭祐氏の著作は、退職にあたって病院に遺された氏の日記をもとに再現された最初の10日間の緊迫した状況下の医療現場のレポート。
 テレビでみる津波の映像や、ニュースで知る医療現場のインタビューではわからない、当事者の内部からの視点で、生々しい迫力がある。不眠不休の医療従事者の活動のすさまじさに息を吞む。時事通信社・刊。1500円。
 太田氏は、名古屋出身の若い31歳の医師。医療過疎地の相馬双葉地方の拠点南相馬に乞われて勤務し、今春退職間際に3・11に出遭う。病院から2キロという最近距離にあったヨッシーランドという老人介護施設は、海から2キロ地点にあって、地震で倒壊し、津波に飲み込まれ多数の死傷者を出したというニュースがテレビ報道されるや、ただちに緊急救命の態勢が敷かれ、その他の救急搬入をすべて受入れることを決定。しかし、続く原発事故の発生で、病院自体も退避をせまられる状況に。
 12日の原子炉建屋爆発で双葉地方からの避難者がなだれを打ってかけこんできた。14日の二度目の爆発で、20キロ圏内の全員退避命令が出るが、23キロ地点にある南相馬総合病院は、病院スタッフの自主判断による退避か、残留かを迫られる。
 200人の収容患者を安全に移転させるまで、薬品は残り少なく、しかし放射能を恐れた物流がストップ。CTもMRIも故障して使えず、エレベーターも故障した状況で、どうやって生き延びるか。極限の最前線で、野戦病院の状態だった。
 18日、大熊町の双葉病院から医療スタッフが避難して患者を取り残したと、大新聞が  一斉に批判記事を載せた。警察が捜査に入った、という報道を聞いて「退避は罪なのか」と、苦悩しつつも、残って医療活動を続けることを決意。
 3月15日、3度目の2号機の爆発で「早くその場を逃げろ」というメールが友人たちから殺到するが、父親へ「しばらくここに残る。もうすこしがんばってみる。何かあったら妻をお願いします」とメールした。妻は名古屋で出産をひかえていた。
 かえってきたメールには「誇りに思う。何も心配するな」とあった。
短い文章だったが、思わず涙が出た、と著者はしるす。
 倫理観と使命感と恐怖のはざまに引き裂かれながら命を覚悟し、殉職も覚悟したときの、最大の試練を、読者にも伝える好著だ。

立てこもる覚悟
 広野町の高野病院は、原発から22キロにある。20~30キロ圏にあるほかの病院は避難うぃ選んだ。高野病院はなぜ避難しなかったのか。
 事務長の高野己保は「最初は、原発のことはまったく頭にありませんでした」という。
 2011年3月11日午後2時46分、鉄筋コンクリート2階建ての病院が大きく揺れた。医薬品の大きな棚が倒れた。病院裏手にあるボイラーの緊急停止を知らせる警報音がけたたましく鳴っている。
 入院患者は震災発生時、内科病棟に63人、精神科病棟に44人。
 1階ナースステーションの隣にある100号室では、胸の大静脈からカテーテルで栄養補給する重傷患者4人がいた。統括看護師の松本とし子(63)はカテーテルが抜けるのを防ぐため、スタンドにぶら下がっていた輸液バッグを外して次々とベッドの上に投げていった。
 うろたえる看護師らに、「早く病室に入って!」と指示した。
 院長の高野英男は、医局でカルテを書いていたが、イスが揺れでどんどん机から離れていく。
 しかし、このときはまだ「大きな地震」という認識しかなかった。
 事務部の菅野明(52)は、ボイラーの警報音を停めるために走った。ロビーに戻ると、テレビで大津波警報が流れている。「3メートル? それなら病院は大丈夫だろう」。海抜25メートルにある安心感があった。
 そこに、つなみがやって来た。
 病院は太平洋を望む丘の上にある。海面がせり上がって押し寄せてくる____。.10 メートルはゆうにあった。
 菅野は第一波の後、道路の状態を見に坂を下りた。
 川沿いの道路は陥没し、海側の道路は倒木でふさがれていた。このままでは孤立してしまう。
 チェーンソーを持ち出して倒木を切っていると第二波が来た。家の屋根が流れてきて、またふさがれてしまった。
 院内では自家発電が茶道し、最低限の医療は書く母できた。しかし停電でテレビや固定電話は使えず、携帯電話はつながらない・情報がない。
 己保は「当分、立てこもることになる」と覚悟する。厨房の職員に「おにぎりをつくって」と頼んだ。
 子どもがいる職員には「歩いて帰るなら今しかないよ」と声をかけた。家族の安全を確認できたら戻って来てくれるだろう。
 この段階でも、認識はまだ「地震と津波だけ」だった。
 プロメテウスの罠 3  2013年2月12日 朝日新聞特別報道部

困難を極める、被災地での医療再生
30キロ圏「応援できぬ」

 原発に近い病院は、次第に医療活動が難しくなっていった。
 政府の避難指示は「半径20キロ圏内」だった。高野病院は福島第一原発から22キロだ。それ以上離れている施設でさえ、状況は厳しかった。
 川俣町の介護老人保健施設「リハビリ南東北川俣」は原発から49キロある。放射線量は福島市より低い。にもかかわらず、スタッフは、ストレスと披露に襲われていた。
 副施設長の市川佳子(45)は2011年3月末、こう訴えた。
「放射能への不安。ガソリンがないから職員は家にも帰れない。一人になると施設の裏に行って涙を流している人もいました」
 浪江町や双葉町からの避難者を含め、170人以上の高齢者を抱えていた。市川たち管理職の間では、こんな会話が交わされたという。
「また原発が爆発したら、どうしよう」
「上の者は残っても、若い職員は何とかしなくちゃいけないな」
20~30キロ圏の南相馬市や広野町は市長や町長が避難を呼びかけた。
 しかし、政府は避難指示を出していない。残る人もいた。南相馬市は約1万人の住民が残った。

入院再開は難しい
 2012年4月18日、南相馬市小高区。小高赤坂病院長の渡辺瑞也は、病院を10カ月ぶりに訪れた。
 地区は2日前、立ち入り禁止の警戒区域から、でき裡できる避難指示解除準備区域に変更されたのだ。
 敷地は草が伸び放題だった。病院の外壁に、当時やっていた塗装工事のシートが残り、ぼろぼろになって風にはためく、無人の病院の自家発電機が轟音を立てている。スプリンクラーなどの消防用だ。
「すさまじいね。ここに患者さんを戻すなんて、できないよ」
 渡辺は警戒区域にあるほかの民間病院と「詩的病院の会」という連絡組織をつくっている。そのなかで、最初に警戒区域から外れた。
 放射線測定器で病院内外を測った。病院内は毎時0・934マイクロシーベルト。やや高い数値が気になる。P39

 誰もいない病室は震災当時のまま。104人いた患者は、東京などのほかの病院に移った。中庭のチューリップが満開だった。
 除染が終われば、居住制限が解除される。そうなると営業利益の賠償が減額されるかもしれない。財物の賠償は具体的に示されていない。
 69歳の渡辺は原発事故の前、後輩医師に病院長を任せ、自分は非常勤医師に退いて75歳まで働こうと考えていた。しかしその医師は宮城県の病院に移ってしまった。看護師など職員の6割は避難中だ。
 借入金が2億8千万縁ある。4月から金利に加え、元本返済も少しずつ始めた。これに職員の退職金支払いも加わることになる。
「入院機能の再開は難しい。できても当面は外来だけでしょう……。69歳という年齢は大きい」
「私的4病院の会」の今村病院。院長の今村諭(57)は4月23日発行の富岡町の義会だよりを読み、驚いた。
 町議「帰還する条件として医療の整備があります」
 町長「双葉郡全体で医療行政を考える必要があります。現在のところ、医療の拠点を今村病院とし、町医に協力以来することで検討しています」
「そんな相談は一切ありませんでした」と今村は怒る。
 建設時などの借入金が10億円以上ある。親族の家や土地も担保に入っている。今村個人のふんもある。
「借金さえなければ、今までの患者が多く住むいわき市に移りたいです」
p49
プロメテウスの罠3 第十三章 病院、奮闘す

  フクシマ・ノート#12
          双葉病院の搬送患者の火葬光景など
               二上英朗
 2011年3月11日の昼頃、群馬県邑楽郡大泉町で日伯学園という日系ブラジル人労働者子弟の学校を経営する友人から、新古のノートパソコンが郵送されてきた。日伯学園には企業からの寄付で大量の商品を困窮家庭に配布すべくセカンド・ハーベスト運動として賞味期限切の近い小麦粉などの食糧や、モデルチェンジに伴って廃棄物となるべき新古のパソコンなども貨車単位で商社から託されるのだ。
 友人高野光雄氏は、同郷の福島県南相馬市原町区の近所に生まれ育った人物で、若くして二人の兄とその夫人達と5人以上の構成家族として1960年にブラジルに移民し、30年の歳月を農業の夢に賭けた。1989年の日系人就労ビザの緩和によって、日本経済界の生産人口の人手不足を救うべくブラジルなど南米から大量の逆移民で日系人28万余が押し寄せたが、ポルトガル語と異文化の壁に阻まれて、実は経営者側と労働移民の側に意思の疎通が細かった。
 満州生まれの祥子夫人は少女時代にブラジルに移民し、高野夫妻はこの課題点に注目して、異文化の中で日本人として生活して来た長年の経験を活かして、通訳や日本語とポルトガル語を教授する日伯学園という外国人学校をリトルブラジルと呼ばれる群馬県大泉町に開設していた。
 高野祥子夫人は2009年に、こうした国際貢献が認められて外務省などが関与する「地球市民賞」を受賞した。母国で同胞の日系ブラジル人と地域に寄与する夫妻の夢の実現だった。
 南相馬で地元新聞やタウン誌を発行してブラジルに移民した高齢の一世同朋に郵送配布する私の活動に長く支援してくれた高野夫妻は、かつての東京オリンピックで金メダルを獲得した三宅義信氏が主宰する「メダリストを育てる会」にも参加していた。
 この会を通じて3.11東日本震災の勃発した直後から、外国人家庭への支援物資のストックから、故郷の福島県浜通り地方の津浪被災者が「着る物もなく寒さに震えて救援を待っている」状況を知り、ただちに2トントラックに3000人分の運動用ジャージ服を積んで相馬の緊急避難所に急行させた。
 その後の心労で倒れた光雄氏が、群馬では有数のリハビリ病院に入院したと聞いて、激励のために訪問した経過については「フクシマ・ノート#5 南相馬のバスはどこに向かったのか?」に詳述した。
 曲がりくねった山道を、2011年の3月に原発事故の直後に南相馬からの大型バスが辿った草津への道をなぞるように追体験するのが私の目的だった。
 高野氏は脳血栓で半身不随の体で懸命に闘病していたが、理想的だと思っていたリハビリ施設はともかく、実は夜間に幽霊の出る噂のいわくがあること等を知った。
 旧友と顔を見合わせて3.11以来の気苦労を語り合いながら、地球の裏側のブラジルを一緒に走破して同朋を歴訪した激励ツアーや、南相馬での日伯交流子供サッカー大会のことなど友情の歴史を振り返った。3.11の直前まで私は高野夫妻の半生を追ったドキュメンタリー記録にするべくフォローしていたのである。
 聞き書きを中心に執筆し、前半生は「もう一つの相馬移民」という大冊のライフワークに出版し、その幸福な余韻の中で、義務感のない締め切りのない時期に、いきなり311が到来したのだ。
 友人から届いたノートパソコンは、その日のうちにメールを再開させてくれて、再び世界につないでくれた。まさに奇跡の神助だと思った。

 事故原発から4.6km大熊町の双葉病院の悲劇
 大惨事の二次被害として、医療の壊滅は最大の影響を及ぼす。大熊町の双葉病院という老人施設に百余の患者を取り残したまま病院職員が医者も看護師も全員が逃げたというショッキングなニュースを朝日新聞が報道したのは3月19日のことだった。338人の入院患者のうち、事故の起きた3月中だけで50人が死んだ事件である。
 記事は自衛隊からの一方的なコメントだけで取材され、鈴木市郎院長の必至で孤独な献身的営為を無視した欠席裁判的な断罪だった。
 後年の事故調査で検証されて初めて当時の状況が詳細にわかったものの、すでにマスコミの酷い集中豪雨のごとき大誤報によって、たった一人で残されて百余の重症患者を数日間介護しつづけた院長の人生を狂わせるほどの影響を与えた後のことであった。
 週刊ポストに「双葉病院の真実」(森功)というレポートで、初めて現場の当事者の実際が明らかになった。(★1)
 バレンタインデーにちなむ病院食のケーキが大量にあったので、食糧不足に充てたが、ベッドに寝た切りの多数の患者の点滴の調整に付ききりで当たった孤独な数日間、情報の齟齬で町から要請されていた自衛隊の緊急の救援活動は、忘れられたままだった。
 その結果、3月末までに移送された50人の患者が次々に死亡した。
 緊急時とはいえ、個人の死は個別の状況で具体的なあらゆるケースがある。すでに幾つかドキュメンタリー番組も書物も出ているが、個別の死を追って行けば紙数は足りない。
 わたしが直近に見た双葉病院の患者の、火葬に立ち会ったケースは地元の福島市に隣接する伊達市の松ケ岡病院で絶命した高野国男の一件である。

 高野国男は、ブラジル移民した高野光雄兄弟の長兄にあたり、唯一姉妹ととともに日本に残った。この兄については311以後に初めて聞いた。30年音信不通でどこに暮らしているのかも判明しなかったという。死後、身元引受人の項目に群馬県の弟光雄氏の住所氏名があったため、松ケ岡病院のスタッフが、死亡を告知し遺体の引き受けを要請してきたのだという。
 「福島まで行かなければならない。伊達市の松ケ岡病院まで行くのだがガソリンがきりぎりだし不案内で道も分からない。案内してくれないか」という。
 佐藤光雄とかいう変名で入院していたが、双葉病院から全員避難命令に従って自衛隊が救出したと言っても、ワゴン車やバスであって医療器具の完備した救急車ではない。しかも放射能を警戒して事故原発から半径20kmの円弧の外側を大きく迂回して、大熊町から原町まで北上し、飯舘村を経由して国道114号を県都福島市さらには東北自動車道を南下して磐越自動車道でいわき市の指定された避難先の体育館や各個の病院へと直線距離20kmで行ける行程を200kmも長時間かけて瀕死の状態の患者を搬送したのである。
 最初にいわき市の学校体育館に搬送されるうちに25名の患者が死んだという新聞記事に驚愕したが、双葉病院から脱出したものの、各地の搬送先で、その後も患者の死者が相次いだ。報道で知った件以上に、わが身に近い患者がいて、しかも隣接する伊達市の病院で避難後に死んでしまったというのだ。
 高野光雄氏は息子光太郎と二人で3月25日にやってきた。粉雪の舞い散る日だった。
 福島市内の簡便なホテルを取って2日宿泊した。火葬場が立て込んで空かないので順番待ちだという。到着した日に遺体を受取って火葬のできる葬祭場「こころネット」の通夜の出来る宿泊場で遺体に高野親子が付き添った。私は翌日あらためて火葬場を再訪した。
 山中の火葬場は、地震で天井が落ちていた。焼却炉が二つしかなくて、片方は東となりの相馬市の海岸で津波によって呑みこまれて溺死した遺体が相馬市内で処理しきれずに続々と運びこまれ、24時間どころか数週間ずっと稼働しっぱなしの状態だった。片方の炉が空いた隙間を待って、ようやく順番に割り込ませてもらった。
 ガソリン不足で、どこのスタンドにも車の長蛇の列だ。ホテルの停めたままで帰路の燃料を節約しておき、ホテルから火葬場までの山道は私の車で往復した。
 火葬は日曜日と決まった。ホテルで高野氏を拾って、わたしの所属教会である福島聖書教会に寄った。日伯学園から、ちょうど季節物の復活祭のチョコレート・ボンボンのつまったブラジルのお菓子をどっさり土産代わりに教会に置いて行った。
 聖書教会には、女世帯の家庭や、幼児のいる若い夫婦などが、地震以来ずっと礼拝室に合宿で寝泊まりしていたから、チョコレート菓子は珍しく評判が良かった。礼拝の始まる10時半には隣市の山中の火葬場まで行かねばならない。欠席を告げてホテルで待つ光太郎君と合流して現場に向かった。火葬場で骨の焼きあがるのを待って、型通りの僧侶の読経を上げてもらって簡単な儀式が行われた。抜け落ちた天井の下の葬儀室は暗かった。浜通り地帯の世界一規模の集中原発基地も原町火発も地震と津波のダブルパンチ火災で停止しているので節電措置にしてあるのだという。
 ひどく寒かった。言葉数すくなく、あわただしい三人だけの火葬が終わり、群馬の日伯学園での仕事も立て込んでいることだろう。
 「それじゃあ」「また」
 しんみりしている暇もなく、あっさりしたやるべきことをやり遂げて、ホテルの車まで二人を届けて、そこでわれわれは別れた。粉雪がまた舞ってきた。3月27日のことである。
 2013年の暮れに、再び高野氏から電話が来たのは、金メダリストを育てる会の懇親忘年会に、福島市の高湯温泉のホテルで、往年の東京五輪金メダリスト三宅選手を囲む会に招いてくれた機会だった。友人夫妻は、元気を取り戻していた。

俺はもういい、と言って死んでいった透析患者の恩師の真相
 外岡秀俊著の岩波新書「3・11複合災害」(★2)を読んでいたら、南相馬の知人が登場し「かわいそうなのは透析患者だ」と指摘していた。身内が相馬市に避難し「もういっぱいだ」と断られ、福島市に家を借りてようやく透析できた。しかし息子は仕事があるので別々に暮らす。また別な透析患者は関東までずっと受入病院を探し回ったが、けっきょく十七日間も受けられず「俺はもういい」と、南相馬に戻って死んだと書いてある。
 311から17日目のことだ。
 かつての母校原町高校で硬式テニス部の顧問だった但野宗彦先生だった。色黒でクロちゃんとあだ名されて、百人一首が得意。気取った喋りの授業で親しまれ、懐かしい人物だったが、民友の死亡欄で震災後の死去告知に触れてはいた。その最期のドラマが描かれていたのだ。
 私の通う病院にも浪江町から二本松の仮設住宅に避難中の七人の透析患者が治療中だが、どんな思いでこの一年を過ごしてきたことか。彼らに但野先生の面影が重なり、無念さは限りない。
 2012年5月13日午前、南相馬市原町へ。駅前のホテルで民間NPOの主催による震災フォーラム。桜井市長、平田議長、復興庁の役人をまじえたシンポジウムを瞥見してから、医療面の実態を知りたかった。高校時代のテニス部の顧問の恩師が昨年透析できずに関連死されたので、一番身近かな奥様を訪問し、最期の様子をつまびらかに聞いてきた。岩波新書に紹介された伝聞の消息とは、やはり違うニュアンスで、最初は小野田病院の紹介で富山県の病院に7人受け入れるといわれたが、介護の同伴はできず、患者だけの受入だというので、それまでつききりで寝たきり、移動も車椅子の夫をやるわけにゆかずに、断った。結果的に国立宇都宮病院に受け入れてもらえたものの、こちらも遠距離のため、うけいれてもらえるまで二週間も透析ができず、最後は「意識のあるうちに帰宅したほうがよい」と院長から説明されたとのこと。同同院は、死去すると翌日に火葬する規約だそうで、未知の土地で骨にされるよりも、「意識あるうちに家族に囲まれて最期を迎えたほうが」、という配慮で院長みずから助言してくれたので、納得して受け入れたらしい。しかも、ガソリンもなく、一般車両も東北自動車道を入れないときに、わざわざ手配して別なセンターから救急車で自宅まで搬送してくれた人情ある配慮に「納得」もあったらしい。81歳だった。17日間も透析できずに生き延びたのは珍しいのだとか。しかし、救えた命が、あの混乱で消え去ったことは事実だ。他人事ではない。
 震災直後の混乱のときに透析中に、腕に刺した針がずれて、出血したまま、気付かなかったというトラブルについても聞いた。わたしも一度、ここ小野田病院で透析したが、みんな若い看護士ばかりだった。施設は伊達の藤田公立病院を見習って、耐震免震の建築で、県内で最新の病院として建設されていたが、311の直後はパニックだった。
 恩師但野宗彦先生が戻って来たのは311から二週間後で、原町区本町の妻の実家は、かつては日露戦争の奉天大会戦での凱旋の勇士で昭和初期に町長を努めた祖父の営む商店だった。但野宗彦氏は、3月28日に最期の息を引き取った。双葉病院から搬送された高野氏の遺体を伊達の火葬場で骨にしていた頃とほぼ同じ頃であった。
 南相馬市原町で生まれた二人の人物が、こうして混乱した医療に助けられずに死んだ。
「充分に生きた。ここで死んでもいい」と母
 さらに我が家の逃避行についても言及しておく。最初の原発爆発で一斉に人口の9割が脱出した12日から数日間を、私の83歳の母は「逃げない。自分は十分に生きた。ここで死んでもいい」と言って、同居の姉夫婦の運転する車に乗ることを拒否して自宅に残った。
 隣家の90歳の実の姉が実は、ほとんど臨終に近い状態だった。最後の介護をすべく従兄夫婦が近くの小野田病院に入院させようと依頼したが、病院側はそれどころではなく、むしろ「病院は全館閉鎖する」と宣言して、すべての入院患者を市外の病院に搬出する手配にてんてこ舞いの状況だった。透析していた但野家にも、富山の関連病院に搬出する案を打診していた。ただし患者のみとの条件だった。
 従兄弟の佐藤志一は、たった一人子の自分を独身で育ててくれた実母の人生最後の数日を、完璧な態勢で見送ってやりたいと思ったものの、街中が地球最後の星を脱出するような騒ぎに湧き立って混乱していた。わたしの母は、役には立たなくとも肉親としてせめて側にいてやりたいとの思いだったろう。けっきょくのところ、13日に姉一家が、遅れて15日に従兄の大型車がガソリン少なく、比較的多めの軽自動車で、従兄夫妻が私の伯母と母とを福島市まで布団を一緒に積みこんで連れて来た。
 従兄弟の妻の実家は、さらに遠い須賀川なので、ぎりぎりの燃料を節約するため、私の車で母を引き取りに市の郊外の須賀川方面への分岐点近くで待ち合わせて、短時間で連絡事項を伝達した数刻も、緊張した会話で今後のただならぬ展開を運に任せたのだった。
 従兄の妻はかつて大熊町の県立大野病院の看護師。娘は南相馬市総合病院の看護師。すでに「赤子を持つ身の若い女性看護師は自己判断で職場を離脱してよし」との指示を受けて山梨の知人を頼って避難している。
 わが家に同居していた叔母も、東京で退職したあと、小高の赤坂病院で働いていたが患者をすべて圏外に搬出させて看護師も避難を指示された。
 鹿島区の私の二人の従姉妹も看護師だが、津波で家を流されて山形へ避難したことを後に知った。二人の弟の妻は相馬市の立谷病院で透析患者を担当している看護師で、「黒い壁のようなものが白く砕けながら迫ってくるのを見た」と、三階の廊下の窓から津波の第一波が海から押し寄せてくる目撃談を聞いたのは、昨年の母の米寿の祝いの席でのこと。身内が地元の看護師ばかりなので、集まって出た会話は、医療の現場の波打ち際における生々しい実話ばかりだった。。
 朝日新聞の「プロメテウスの罠」はじめ、「10日間の緊急医療」「双葉病院の真実」などで被災地の医療壊滅の問題は多く取り上げられているが、しかしそれでも現在の問題は、医師は被災地での野心的な若い医師の志願は多くて二倍もいるが、看護師は相変わらず成り手がいないこと。「注射も打てないような研修医がボランテイアで来て給料一千万円かよ」と言った陰口が地元では好んで通用している。復職した看護師たちが「あなたは逃げた人、私たちは残った人」というカチーンと音たてるような、戦線を守り切った戦友意識でがっちりスクラムを組んだ人間関係という見えない壁がそそり立つ印象もぬぐいがたい事実だ。

逃げた避難先はホットスポットだった
 津波がきた翌日の3月12日原発が爆発して、実家の母たちは隣家の伯母一家とともに、彼等の叔母が嫁いで幼時から往来のあった山手の農家に避難した。親戚一同が集まったのは、昭和20年夏の原町空襲のあった直後の8月9日10日から実に66年ぶりのことだった。
 ふだん自室で一人だけ嫁の介護をされている伯母には、見慣れぬ人の多さに「きょうは何かお祭りなのか」と、怪訝な光景に見えたようだった。
この大谷地区というのが、放射能雲がぶつかってフォールアウトが降り注いだ。。情報もなくて避難した先が、壊滅した南相馬市の海岸や、町に比べて、放射能ブルームが風向きで多くフォールアウトしたホットスポットであったことは一か月後のことだった。
 自宅に戻って体調が急変し、入院を拒絶されて臨終の日まで避難した90歳の伯母が遠隔の嫁の実家で息をひきとったのは5月のことであった。近所の誰も帰宅していないので、伯母の葬儀はまだしていない。死んだ場所がどこであれ、看取ってくれたのが長男と嫁であったことは、昔の人だった伯母にとっては、かろうじて最低条件だったろうと思う。
 最近「自己責任の透析は高額だから死ね」と失言したフジテレビのアナウンサー長谷川豊が辞任に追い込まれたり、副首相麻生太郎財務大臣が高齢者に対して「90歳でまだ生きるつもりか」と暴言した報道に驚愕もする。これこそ医療の崩壊だろう。
 私自身は3.11の大地震で水道の幹線が破裂し水がなくて病院機能が止まり、透析できずに亡くなった被災者の報道を見るたびに危機感も覚えた。
 私が通院している蓬莱東クリニックでは、あの311の激震が続いた瞬間に布団をかぶせて落ちそうな掛け時計の下のベッドの私を守ってくれた武田看護師の姿が強烈な記憶に残る。
 蓬莱東は断水して水がなくて市内の他の荻原透析医院に回されたが「市役所から頼まれてよその緊急患者まで引き受けたんだ。命がかかってんだ。彼らが死んだらお前らの責任だぞ。早く水を届けてくれ」と必死の形相で水道局に罵声を上げて電話している院長の姿も目撃した。「この医者になら任せられるな」と、医療現場の神聖な献身に感謝した。まさに野戦病院だった。
 蓬莱東の水道管幹線が回復するまでの一か月間、大量の水の運搬補給は緊急車両の消防タンク車や、岐阜自衛隊施設部隊の給水車両によって行われた。医師も看護師も事務職員も自前の飲料水も一か月間ペットボトル持参だった。
 全区域が退去させられた双葉郡浪江町の被災透析患者ら7人が、県内各地の体育館や公共施設の応急的な避難所の7、8か所を転々とたらい回された後でこのクリニックにたどり着いたのは、さらに数か月後のことであった。
 更衣室で「おめえ、最近パチンコ屋にばっかり行ってるんだってな」「だって、ほかに行くとこなんかあるもんか」と仮設暮らしの老人たちがやり取りする光景は、「フクシマノート#2」の「311死の町のスケッチ 定点観測者の憂鬱」の会話と全く同じだった。

 注★1森功ブログ「双葉病院の真実」=http://mori13.blog117.fc2.com/blog-entry-948.html
 注★2外岡秀俊著の岩波新書「3・11複合災害」=
https://www.iwanami.co.jp/book/b226142.html

 注★2外岡秀俊著の岩波新書「3・11複合災害」=
https://www.iwanami.co.jp/book/b226142.html

関根俊二さん 医療功労者 「第41回医療厚労省」(読売新聞社主催、福島民友新聞社共催)の本県受賞者に決まった2人。関根俊二さん(70)は東日本大震災、東京電力福島第一原発事故後も住民に寄り添い診療を続ける姿勢が高く評価された。
2013年2月1日 民友

関根さんは「支えてくれた医師や看護師のおかげ」と謙虚に喜びを語る。福島医大の外科医局を経て国立郡山病院(廃止)で約20年勤務。県や浪江町から津島診療所勤務を請われ、へき地勤務を志した。診療所では「県人で腕の良い外科医」との評判が広まり、近隣町村からも患者が訪れた。
 原発事故後は、翌日から診療所に長い列ができ、町が役場機能を移すまでの数日間で1日300人超が訪れた。この間、原発事故の放射能雲が津島を通過。装着していた積算線量計は4日間で0.8ミリシーベルトを計測した。一時診療所を閉じたが、町の要請で2011(平成23年3月19日に二本松市で再開。薬や医療機器、患者情報が足りない中、経験を頼りに診察した。「使命感で一心不乱。涙を流して感謝された時は医者冥利に尽きると感じた」
 〃4月中旬から二本松市岳温泉に移り、9月中旬から二本松市・安達運動場仮設住宅内の仮設診療所で診察している。

引退なんてできない
 浪江町下津島の医師、関根修二は、町民の被曝検査をするように昨年4月から言い続けていた。
 昨年5月には町長の馬場有と東京の首相官邸まで直訴に行った。首相の菅直人や、厚生労働大臣の細川律夫らに「内部被曝の検査をやってほしい」と訴えた。
 菅は「できるだけのことは早くやります」と答えた。しかし、それきりだった。
 福島県による本格的な内部被曝検査は8月から始まったが、遅遅として進まない。浪江町は2万1千人の町民がいるが、ホールボデーカウンター(WBC)による検査が済んだ人は4千人弱しかいない。
 浪江町内で放射線量が赤いのは、津島と隣り合う赤宇木地区だ。
 2がつ、赤宇木の集いが二本松市であった。町議の馬場績が「内部被曝の検査をした人はいますか」と尋ねた、そこにいた90人のうち、手を挙げたのは二人だけだった。
 4月16日、関根がいる仮設診療所には健康管理手帳を配布した。被曝量や検診結果をつけてもらうことにした。
 関根は事故当時、医師用の線量計を身につけていた。X線機器を扱うことが多いためだ。
 事故前の月まで、その線量はずっとゼロだった。それが昨年3月の1カ月間は800マイクロシーベルトを記録した。
 津島にいる間、関根はずっと診療にかかりっきりで、室内にいた。
「外にいた人はもっと浴びているはず。あのとき、津島は避難してきた子どもらも大勢いました」
 関根は、除染に多額の費用をかけるなら、そのお金で住民の家を建て、移住を進めたほうがよいと考えている。
「地形を見てください。山に囲まれているんですよ。山林を、どうやって除染するんですか」
 関根は山が好きで、55歳のとき望んで津島に来た。来年3月でやめる余地だった。だが今は、仮設住宅がある限り診察を続けるつもりだ。
「医師は私一人しかいませんから、放り出すわけにいきません」
 関根は双葉郡医師会の副会長でもある。関根によると、双葉郡には54人の医師がいたが、いま福島県内にいるのは19人だという。
「いま町民に一番必要なのは、これからの見通しと希望なのです」
p187 プロメテウスの罠2 

私たちに死ねというんですか

私たちに死ねというんですか? 吉野和江施設長

渡辺病院 それぞれの選択
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