315道の駅東和で 菅野まゆみ 
 一番懸念していた東京電力福島第一原発の1号機、続いて3号機と爆発が起きてしまった。津波の犠牲者の救助活動もできず、避難生活が始まった浜の人たち。3月15日の夕方には、私が住む二本松市東和地区の公民館や体育館などには1500人もの浪江町民が避難してきた。雪がちらつく寒い夜の体育館での避難生活は大変だったろうと思う。
 16日、大学卒業後、収納して2年目になる長女が、支援できることの内容を聞きに、避難所を訪ねて行った。紙に書いて来た物資を何とか集め、夕方私と一緒に持ってゆく。段ボールの中はとにかく寒さを防ぐためのセーター、ジャンパー、長袖、長ズボンなどの衣類と、洗面器具、タオル、バスタオルなど。ひな所は避難者や町職員達とボランテイアで支援に集まった人たちで混雑していた。帰って来てから長女は、ブログやツイッターで支援物資の提供を呼びかけ、その夜、私は保存していた大根を輪切りにして煮込み、大根とカブは浅漬けにして次の日届けた。
 道の駅ふくしま東和は、震災後も営業時間は短縮したものの、1日も休むことなくお客様におにぎりやお惣菜を提供し続け、我が家も朝いちばんで味おこわをつくり、道の駅ノ直売所に運んだ。コンビニやスーパーでの食料品がなくなっていく中で、道の駅には食べ物を求めてお客様が立寄っていく姿が多く見受けられた。
 しかし、間もなくガソリン不足で行動範囲がせまくなり、3月19日頃から毎日環境放射線測定値の測定結果が防災無線で流されると、人の姿がこの里山から消えてしまっていた。この時、近くの太田住民センターの数値は6.25枚クリシーベルト/時であった。
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福島県九条の会編「福島は訴える」かもがわ出版 2011.11.30

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