島尾における「いらだたしさ」とか「ゆかしさ」とか、前述した「うしろめたさ」とかいった、さまざまな心理的側面に加えて特徴的なのは「やりきれなさ」である。例えばそれは「ロング・ロング・アゴウ」に指摘できる。「ロング・ロング・アゴウ」は香戸少尉と陽子という、青年将校と若い女教師の絶望的な行きずりの恋物語である。
 あるきっかけから、ふたりの青年将校が、陽子と友達になる。何度か二人で遊びに来るうちに、香戸少尉は単身で陽子を訪ねるが陽子は不在の時であった。どちらの少尉か分からぬまま陽子が駅まで追いかけてゆくと、それが香戸であった。やがて次の土曜日、陽子が宿直の日に香戸少尉は陽子を学校にたずねる。そのころには「香戸少尉にとって陽子の存在がかけ替えがなく思われ」てくる。
 しかし、それは戦時下という状況で、明日にも前線へやられるかも知れないという、追い込まれた青春へのいとおしさでもある。香戸にとっても陽子は、彼の残された青春を意味する象徴的な存在であったであろうから。しかも陽子にとっても同様の条件であった。単身で自分をたずねて来てくれた少尉がどちらの青年であるかを陽子は知らない。どちらがどちらよりも好きだという気持も、まだ確かでない。そのような状態では陽子にとってどちらの少尉でもよかった。ひとりの青年が自分の青春に光をあててくれる存在としてあらわれたことが重要なのだ。
 香戸は陽子に、陽子は香戸に、お互いの青春を確かめる最後の「意味」を見出そうとしていた、ということが核心なのである。
 初めての二人だけの時間を持った香戸少尉の、熱っぽいたかぶりをそらすように、陽子はそれと気づいて、オルガンの方へ寄り「ロング・ロング・アゴウ」を弾く。

 語れ愛でしまごころ
 ひーさしき、むーかしの

 「香戸少尉には未だ陽子の気持ちが分からない。」分からないままに「香戸少尉はその責任を追い詰められたような重苦しい気持ちになって来た。」そうしてついに「彼はもうどうでもよいと思った。と同時にやわらかい抱擁への欲求があって、然も女の黙っている姿勢から、彼女の察しの悪い不明瞭さへの恐怖も感じとり、早くこの危険な場所から身をひかなければならないと思った。」
 香戸少尉の心は、不安定に揺れ動いている。どうしたらよいのか分からない。
 「然し香戸少尉は何かに負けた。そしてこんなことをしゃべっていたのだ。
 「あなたにお会いした時からあなたが好きだったのです」
 言ってしまってから、彼は大へん軽はずみなことを口にしてしまったと強く感じたのだ。それをどう持続して行けるというのだろう。あなたが好き、そんな言葉をこんなに早く言ってしまってよいものだろうか。今までこんなに大切にして来た言葉をこの陽子にやってしまってよいのだろうか。」
 香戸少尉は揺れ動き続けながら、自分の言葉にとまどい、後悔に近い気持でその言葉の行方を追いかけはじめている。
 陽子の方は、と言えば「そのため陽子は安心してずるくなって行くことも出来た。陽子は、来たな、と思った。然しそんなにも期待し予期していた言葉であったのに、それを聞くと、ぼろぼろと涙が大粒に流れ出て、ぼんやりしてしまった。」
 

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