5 金房村の開拓

 戦時中
  平田は1938年2月に郷里の生家を離れて上京し、理化学興業株式会社に就職して、月報編集の業務に携わることとなった。同社を設立したのは大河内正敏であるが、プロ科内のフラクションをともに立ち上げた正敏の子息・信威の尽力で入社が決まったのである。また平田の同僚には、同じくフラクションの立ち上げに関わった井汲もいた。
 平田は大阪転勤を経て、1941年1月に理研映画株式会社取締役支配人となり、科学映画も制作に従事することとなった。しかし太平洋戦争の勃発後、軍から同社に対して平田を含む思想犯の前歴のある社員を追放するようにとの圧力が加わったこと、また映画会社の統合問題をめぐって平田自身が経営陣と対立したこと、という二つの要因によって、平田は42年8月に退職を余儀なくされた。退職後、平田は満州鉄道調査部に一旦は就職が内定したものの、出発間際になって、満州鉄道から思想転向を迫られ、それを断ったために、その就職も流れてしまった。平田はその後、42年12月に日本軍占領下の上海に」あった中華電影公司に職を得て、ニュース映画や文化映画の製作指導に当たることになった(注59)。
このように平田は紆余曲折を経ながらも、41年1月から終戦間際まで日中両国において、軍の意向に沿った国策映画の制作に携わっていた。
 もっとも、上海滞在中に平田が興味を惹かれたのは、やはり農村の調査である。注か電影公司での映画製作の「仕事と言えば配下の話を、うんうんと聞いているだけみたいなものだ」った。所詮、平田にとって映画は「世をしのぶ仮の姿のようなふしがあった」(注60)。平田は上海滞在中の農村調査について以下のように回想している。

 私は中国の農村を知りたかった。上海に落ちついたが、揚子江を越えて南進、狼山を見た。その辺は八路軍の陣地と接し、八路軍の青年が日本側の指導農場に来て合宿して勉強していた。合宿が終わると、大部分がまた再び八路軍に帰って行くとのことであった。(注61)

柴田哲雄「南相馬市小高区に根差した抵抗者の軌跡」愛知学院教養部紀要64巻 2016.9.28

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