沢先開拓誌3
沢先で二人老後楽しく 五十嵐春治
 今の所に二十二年十二月入植し、二十四年十二月結婚した。
 開拓に精を出し、四十二年にトマト作りして加工トマト振興大会で賞状をもらいました。
 四十六年に水田を作り、ひとまずほっとしましたが、家内が体が弱くなり苦労しました。
 だが環境の良い所ですので二人老後をたのしく楽しく生活したいと思います。

沢先開拓誌4
風化する思い出は残念  五十嵐ユキ
 私は津島に来たのは何でも昭和二十七年頃だったと思います。夫と昭和十八年に打つに宮で一緒になり現在の長男一晃が生まれ、ほとんど夫が迎えに来るまで実家の宇都宮で暮らしておりました。
 昭和二十六年頃だったと思います。夫が迎えに来たので現在地に来た様なわけです。ほとんど開墾は成功してありました。でも食糧難の最中でろくなものも食べず、朝早くから夜遅くまで畑仕事をしました。
 義母が昭和三十五年に亡くなり、三年五三男俊郎がまた亡くなり、悲しい不幸が続きました。
 三十八年頃から夫は北海道の方へ出稼ぎ七年間も行かれまして、子供は学生三人と通学、何かにつけて大変でした。
 とにかく食糧難の時期でしたかご飯の中にはほとんど雑炊を混ぜまして食べなければならない時が多々ございました。
 でも今になってみると当時の事なぞお互い忘れ始めているのではないでしょうか。

5 食事はイモで補う  五十嵐ヤイ

 主人は二十年に入植し、私は二十四年に嫁に来ました。朝早くから夕方遅くまで開墾しました。
 食事は思う様に食べられず、じゃがもなどで不足をおぎなった。子供は女の子五人育て、見な嫁になりました。
 主人は若い頃は木馬引などして現金を取ってもらいました。十年前から体をこわして時々入院をしていますが、子供たちに時々来て見てもらっています。

6 電話や電気が通り感激  五十嵐一晃
 
 今の沢先の思い出を振り返ってみると四十二年くらいい前に小学校に入り、冬の雪の多さが今でも思い出されます。
 また先輩たちにお世話になり学校に通ったものでした。うれしい思いでに中に歯。電話や電気が導入されることが伝えられた昭和三十一年ごろです。
 電気がともる日をトンと鵜に心から待っていたものです。
 ごはんと言われても毎日じゃがいもが主食でした。今では考えられません。でも今の父母以上の人はまだ大変だった事でしょう。無くなった祖母、ばあちゃんには食べられる草等を説明して教えてもらったものです。
 小学校一、二学年になると、焚き木取り、家畜の世話、風呂の水汲み、台所のおまかない。父母が忙しいと学校を休んで兄弟の世話をさせられました。特に田植えの初夏の節は。
 でもそれが今の暮らしにつながり、兄弟や先輩たちと頑張れた根源かもしれません。車なども昭和四十年後半から見られたような気がします。
 思い出はまだまだありますが交通の不便さがありました。自分の弟の病気の手遅れや地区の中で先輩たちが今のような便利な生活を経験せずに去ってゆきました。
 淋しくて何とも言えない時代もありましたが、これからはこの五十周年を機会に先祖に笑われないように頑張って行こうと思います。
 今の家族と共に、そして沢先はもちろん津島の皆さんと素敵な子孫と自然のために。

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