開拓五十年の歩み
 昭和二十年八月終戦と同時に津島村は石井登村長を団長として開拓団を組織し、福島県に対して受入れを要望し、不安に脅える外地よりの引揚者を優遇しようと津島村役場に受入事務所を設置した。
 国有林開放融資資金の手続事務、物資の配給など、あらゆる事務を末永亨助役、紺野政治郎収入役、遠藤胤正書記、武藤藤夫書記、紺野嘉郎書記と役場の事務と同時に国策である緊急食糧自給なる緊急開拓入植事業に取り組んだのであります。その事務は膨大なもので対応に忙殺していたのであります。
 昭和二十三年十月各地区の組合が設立され津島開拓農業協同組合として初代組長に大塚仙吉氏が選ばれ、これによってほっそくされたのでありますが、事務所は津島村役場内に設置し事務の執行を行っていた。
 昭和二十五年七月下津島字松木山紺野信一氏のご厚情により、土地を借用することが出来まして、そこに事務所と開拓者に対する食糧を供給するための加工場を建設して移転したのであります。
 農村加工場は国庫補助と農林漁業資金の融資により製粉、製麦、製麺、搾油、籾摺り、精米とあらゆる加工の機械を導入して、食糧の供給に当たることとなりますが、収穫した穀物を毎週二回徒歩で二時間もかかる所より背負って来て、加工してまた背負って帰り、ようやく夜食に間に合うというこの苦しかった頃のことは決して忘れることはできません。
 その当時は思っても見なかった現在の生活や文化であります。ロケットで人工衛星が飛び人間が付から地球を見ることができ、それをテレビで私達は食卓で見ることの出来るこの幸せの陰には、決して忘れることの出来ない戦争があったのであります。
 あの苦労は、地球がある限り決してさせてはならない。そのためにも入植五十周年記念を開催し私達が残して行かなければ誰が伝えて行けるでしょうか。
 私共は、シベリアより復員または満州や樺太から引き揚げて来てこの地に入植し、食える物は何でも食べた。
 ただ嬉しかったのは水が豊富で非常にきれであり、またその豊かな水にはウグイ、ヤマべ、イワナ、カジカ、ヤナギベ、サンショウウオ、フナ、コイなどの魚が泳いでおり、山には小鳥やウサギがおり、恵まれた土地であり、その自然の動植物を取って食糧とし、さらに薪が多くあった事でこの地を選び入植したのでありますが、当時は住む場所もなく笹の家に住む、布団もなく毛布だけで寒い時は一夜中炉に焚火を燃やし暖を取って過ごすことが多かった。夜は松明を灯してあかりを取っていた。
 国からの補助と融資によってノコギリ、マサカリ、シマダ鍬が渡され一鍬一鍬開畑に専念し、穀物や野菜の種子を蒔き、だんだんと食べるだけの事は出来るようになった。
 履物がなく裸足で農作業をし、近い山にかかる雲や霧、動物の動きや植物の育ちなどから、明日の天気を予想しながら、その年の豊作を祈りつつ暮らし続けてきたのであります。
 沢先地区の中央には「バンギ」があり、火災や緊急の場合バンギを叩いて急を知らせていた。
 昭和二十八年、二十九年と例外に見舞われ作物が全然穫れなくて不作となり、アメリカより小麦の援助があり加工場で粉に加工して一戸七十キログラムを渡され、またララ物資の衣類の奉仕を受け助けらました。開墾するとそれに対して国庫補助があり、その資金が生活費となった。
 建設隊による住宅建設が行われ、国庫補助と自己負担で建て行った。飲料水も厚生省の補助によって各戸に水道が完備され、電気も国庫補助と農林漁業資金によって電気導入が始められ、ラジオを購入しニュースを聴く事が出来、楽しみが一つ増えて生活も少しずつ楽になって来ました。道路の建設も行われ人夫として働くことが出来家計の収入が増えてきたのであります。
 開拓農業協同組合でも三輪車を買入し農産物の出荷も順調に行くようになってまいりました。保健婦の指導によって厚生委員を設立され家庭薬品の共同購入も始まり病気の時の常備薬としてとても助かりました。
 その後、厚生委員から開拓婦人会が設立され全国に働きかけ全国開拓婦人会は発足し婦人活動が活発になり、国に対する夫人の要望ができるようになった。
 入植者が年々多くなって来ると教育の面でも津島小学校だけでは教室が不足し考えなければならない時期に入って来た。そこで赤宇木行政区長伊丹源一氏と開拓組合長大塚仙吉氏の尽力により開拓組合共同作業場の名目で農林省より補助を受けて、津島村長石井登氏の土地の提供を受け、木造平屋建て二教室六十坪を建築士て、津島村立赤宇木分校として児童一四〇人二学級編成で昭和二十三年四月一日から発足したのでありますが、昭和二十六年には児童数二三六人となったため増築をして昭和二十七年四月一日より津島第二小学校と昇格したのであります。

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