農民との思想の相違
 さて、平田は出獄した1936年4月から38年2月まで、郷里の相馬郡金房村大字小谷の生家に一家ともども身を寄せたが、その間に「経済評論」誌上に、」様々な論説やエッセーを発表するようになる。ちなみに「経済評論」は「プロレタリア科学」が発行負の鵜になった頃から、検挙を逃れたプロ科関係者たちにとって、それに代わるものとして企画されたものであり、1934年9月に創刊された。注45
 まず、「経済評論」誌上の平田の論説から、前述の「生きた農民を忘れてゐた」ということをもう少し具体的に見ることにしよう。平田は以下のように述べている。

 私は五年間刑務所生活をし、一囚人として生活をして見た。私は農村に生まれ、かつて多少とも老父母や兄弟妹達と百姓をし、併し間もなく都会で十数年を暮し、農民問題を勉強して見、再び刑務所から農村に還り、其処で私の感ずることは、私の思想と私の生活と農民達のそれとの相異であった。

 このように平田は「私の思想と私の生活と農民達のそれとの相異」を認めるが、まず思想の相違から触れることにしよう。平田は思想の相違をもたらした原因について「ただ機械的思想を、公式を而も誤謬を若干犯しつつ話して来た」ということを挙げている。換言しれば「農民の現実の社会、経済、その歴史、つまり村に立って私は生活してをらず、考へてはゐなかった」のである。そしてそうした点について「私は痛切に農民の前に恥ぢお詫びしなければならない」とまで言い切っている。注46

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