フクシマ・ノート第13回 新地駅にて
二上英朗

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが、人々へのインタビューをもとに『チェルノブイリの祈り』を刊行したのは、チェルノブイリ原子力発電所の事故から一〇年後のことだった。二〇一五年にノーベル賞を受賞して、初めて読んだ。それほど感度の鈍い田舎の郷土史家が、「フクシマ・ノート」というこの記録を書き続けている。
 マスコミによる膨大なリアルタイムの情報の波に抗いながら、なお福島の記録にこだわるのは、プロメテウスならぬエピメテウスの意地でもある。
 東日本大震災からは六年がたった。
 熊本地震から一年、鬼怒川水害から二年、広島大豪雨から三年、チェルノブイリから三一年。現場は復興景気で整備されて、記憶はどんどん遠くなる。追体験できるうちに記しておきたい。

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 原田晋明(はらだ・くにあき)は、JR東日本に勤める運転士である。
 生まれは南相馬市原町区の雫(しどけ)。海辺に近い地域で、田園のなかに集落が点在する牧歌的な風景が広がる。地元の小高工業高校の電気科を卒業して、いったんは自動車部品を製造するライン工場に就職したあと、父親の職業でもあった鉄道マンへのあこがれを諦めきれずに、JR東日本を二度受験して、一九歳で合格・仮採用、翌年本採用されて原ノ町運輸区所属の電車の運転士になった。
 仙台と平の中間地点にある原ノ町駅は歴史的な鉄道拠点であり、明治三一年の駅開業によって、鉄道員の家族を中心に人口が増大し町が発展したという背景もある。もともとが鉄道で生まれて鉄道で育った町だった。
 二〇一一年三月一一日の朝にはいわき駅に出勤。そこから仙台へ移動し、原ノ町駅までの旅客乗務を始業した。順調に運行しているところへ突然の連絡。「名取駅で抑止せよ」との指令が出たので、そこで電車を止めた。
「なんだろうと思ったとたんに揺れが来た」
 これが解除されたのは一一分後で、電車を岩沼駅に移動させ、普段は使わない上り本線に電車を入れて待機した。大津波警報が出ていたが、相馬地方での津波はいつも数十センチで終わる。「たぶんいつもの通りに空振りに終わるだろうな」と原田運転士は思っていた。ほどなく解除されて岩沼駅から一〇分遅れて出発した。浜吉田、坂本、山下と、硯のようなと形容される、まことになめらかなすべすべした見事な平地を、滑るがごとく列車は走った。
 新地駅はわずか三〇秒の停車の予定だったが、停止してすぐに地震が来た。
 いきなり横揺れ。
「無線で緊急停止の指令が来た。倒れるんじゃないかとさえ思ったほどの横揺れに揺れた。列車は、けっきょく倒れずにおさまったものの、この揺れはなんだろうという驚きのほうが強かった」
 列車には車掌が男女二人と、地元の一般利用客が四両に四〇名乗っていた。たまたま乗り合わせていた乗客の中に、これから研修で福島市蓬莱の警察学校に通うという新任の警察官の青年が二人いた。
 ひどい地震なので、この先の線路が安全かどうか、三人の乗務員には点検の義務があり、車両の安全を確保しなければならないため、電車を離れるわけにはいかない。「自分たちが引率して乗客すべてを避難させましょうか」と青年警察官二人が申し出てくれたので、渡りに舟と思い、「お願いします」と乗客の誘導を委ねた。

 乗務員には、無線で指令が届く。車掌が逐一命令に耳を傾けていた。原田は駅舎にいて、最初は「遠くに何かある」と思っただけだった。
 新地駅舎は海から五〇〇メートルしか離れていない。しかし、民家などで海が直接見通せるわけではない。たまたま、新地駅の駅舎に状況を確認しに行った女性車掌が跨線橋を上がって車両に戻るとき、遠くに「波」を見た。しかしまだこれが津波だと気づかない。車内に戻って他の乗務員に状況を説明し、「遠くに何か見えます」といったのが最初だった。男性車掌が言った。「津波だ」。原田運転士は、それで初めて海のほうを見やった。遠くの田んぼに水が入ってきたのが見えた。
 もう一度状況確認に向かおうとしたとき、海側の近くの建物の屋根の上を水しぶきが乗り越えてきた。急いで車内に残っている乗務員を呼んで跨線橋に上がった。
「しぶきはみませんでした」と原田は回想する。いわゆる津波のイメージではなく、水面が持ち上がってくる印象だ。
「どうしようか」という言葉と同時に、三人は跨線橋の階段をとにかく登った。みるみるうちに水かさはレールを浸し、ホームを満たし、それを超えて水かさが階段を上がってきた。
 津波はあっという間にホームを乗り越え、 四両つなぎの電車が没してゆき、仙台方面から向かって前二両と後ろ二両の後方車両が「くの字」に折れ曲がってぷかりぷかりと浮き上がって、横倒しになりながら駅舎と一緒に流されていった。
「乗って来た電車の先導車が浮いて、流されて、跨線橋の階段を流していった」
 波の圧力が階段に加えられた威力は、想像力を超えていた。このとき跨線橋が軋んで壊されそうになり、もうダメだなと思ったという。
 第一波に跨線橋は耐えたが、続く第二波は跨線橋の上まで水がきた、さらに第三波が見え、乗務員はみな、再度「もう終わったな」と思った。しかし、跨線橋は何とか津波に持ちこたえたのだった。

 津波は夜になっても何度も繰り返していた。急に冷えてきた。朝から日中にかけて汗ばむほどの暖かさだったため、原田に支給された運転士用ジャンパーを家に置いてきていた。車掌も支給されている車掌用のコートをもっていなかった。こちらも外套を脱いだ軽装だった。
「あの日は日中は温かかったんですよ。しかし夜になって、ひどく冷えてきました」
 その日のうちに、ヘリコプターは飛来してきた。原田らは大声で、空に向かって手を振って、孤立している自分たちの状況を知らせたかったが、サインは届かなかった。夜になってもヘリコプターは飛んでいた。私用の携帯電話の液晶画面の明かりを空に向けてはみたものの、いかんせんちっぽけな携帯の明かりぐらいでは、高空まで届くものでもなかった。原田さんの努力も虚しく、宵闇の中ヘリコプターの音は「もしや」というふくらみかけた期待の思いを引きずったまま、だんだんと遠のいて消えて行ってしまった。
 波がおさまるたびに、水が引けたかどうかを確かめに跨線橋を降りてゆくが、完全に引いて次の津波が来ない保証はない。ふたたび階段を登って橋の上で連絡を試み、情報の収集に徹した。車掌が持っていた業務用の無線通信キットには携帯ラジオが付いていたので、ラジオの災害ニュースで三陸の津波情報は繰り返し聞くことができた。新地駅よりすこし北にある岩沼駅に近い仙台空港が、津波に呑みこまれてゆく有様や、三陸の海岸地方で陸の連絡路が絶たれ、救援が待たれる状況などについては理解できた。自分たちが置かれているのもまったく同じ孤立状態であることを、どうにかして本部へ連絡せねばならないと思った。
「救助の要請はしたんです。時々無線がつながる時もあったもんですから」
 夜間になって空中の電離層の状態が安定してきたのか、ときどき、通信機がつながることがあった。夕刻六時頃に第一報を通知した。通知先は本部。すなわち原ノ町運輸区の区長であった。現在の状況、すなわち運転士と二人の車掌が、津波による新地駅の駅舎と電車の破壊により跨線橋の上に取り残されていること、ヘリコプター以外には脱出が不可能である状況などについて報告した。
 そしてまた通信状態が微弱になり、途切れる。またつながるという状態で、夜は延々と続く。
 ――本部の反応はどうでしたか?
「こちらもパニック状態なので、とてもそちらへ救援部隊を向けられない状態だから、何とかそちらはそちらでがんばってくれ、というような返答だったですね。とにかく明日の朝まで何とか持ちこたえるしかない、と(思いました)」
 朝方の五時半ごろ水が引いていた。形あるものは流され、瓦礫は残っていたが歩けそうな道が見えていた。三人は歩いて役場まで行った。空気は澄んでいて静かだった。
 あの夢のような災害の一日と一夜が明けて、生還した三人は新地町役場で迎えられた。すべてが波に飲みこまれながら跨線橋だけが倒れずに残ったこと。警察官が二人電車に乗り込んでいて、乗客全員を引率避難できたこと。あれだけの巨大な津波に襲われながら、一人も命を落とさなかったことは、すべてが神の配材に因る幸運と言ってよかった。
「一番気がかりだったのは、駅で降りて避難していった乗客たちの、その後の生死のことだったんですが、じつは答えを聞くのが怖くて聞き出せませんでした」
 役場庁舎は国道六号線に近くですが、低地にあるので、乗客は二手に分かれて、ここから山手の西の岡の上の小学校や中学校まで再避難した、とあとで聞いた。
 ――いままで原田さんの一晩中孤立していた体験談は、新聞記者もテレビカメラも取材しなかったのですか?
「新地町役場にたどり着いた時に、取材のテレビカメラはいたようでしたが、われわれがようやく跨線橋から帰ってきたことには気が付かないようでした」
 たしかに、地震と津波そのものの巨大さは、消失した新地駅やつぶれた電車の撮影だけでも大きな仕事だったろう。次から次へと大きな記事になる事件が各所で展開していた。新地駅の災害はいったん新聞記事になってしまえばもう忘れ去られて、翌日には別な大きな記事が控えていた。東日本大震災がいかに巨大な災害であったかの証明である。


【写真は津波で破壊された新地駅】

 二〇一七年四月一一日、原ノ町駅前の南相馬市図書館の入口にあるカフェで待ち合わせて、原田晋明氏と面会し、三時間余りインタビューした。六年一ヶ月前の出来事について、克明に記憶を聞き記録した。
 原田さんの趣味はバドミントンと山歩きだったが、「最近は体力がなくなって縁遠くなったな」と。奥さんとは共働き。息子が三人。
 あの三月一一日は、長男は大学受験のため東京に出ていた。妻は自分の仕事で研修のため茨城県に出張中だった。次男は家にいたが、原町区高平の家では電気もガスも止まることはなかった。三男は妻の実家の祖母を気遣って合流していた。幾重にも幸いが重なった。

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 常磐線浜吉田―相馬間が再開通した昨年一二月一〇日には、安倍首相が真新しい新地駅で行われた開通式に駈けつけて、記者とカメラマンの前で愛想をふりまき、福島県の順調な復興をアピールした。明けて今年四月には浪江駅が開業して、やはり首相が笑顔で暗い未来を払拭するかのように、ドローン生産の拠点にするのだと、被災地に誘致した先進工場を見学した。「いわき近海の水産物も安全だ、大丈夫だ」と同伴した今村復興相は試験操業で捕れたコウナゴをほおばっていた。
 そんなニュースをわき目にしながら、まだ私は3・11を記録することにこだわっている。

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