20 心の支えは近所の人々  三瓶幸蔵

 入植当時は、車も入らない細い道で田畑も手で耕し、小さいものでした。収穫したものを背中にしょったり、リヤカーで運んだり、手に引かせたものです。五十年振り変えれば、いろいろな事がありました。
 でも近所の皆さんに支えられて、今現在まで過ごして来ました。これからもこの地にて頑張って行きたいと思います。

21 戦後100年に向け家族一丸  三瓶高男

 昭和二十二年。
 私の父は地元の農家の三男でした。入植したときはハダシでハダカ一つだったそうです。昭和二十四年に長女とよ、あと二十五年に三瓶家の長男として私が生まれました。
 その後私のあとに男子三人、女子二人合計七人と父母との九人家族となりました。
 この時から私たちの五十年の歩みの始まりとなりました。住まいは萱葺き屋根の六畳一間、八畳一間、かまや六畳でした。風呂は露天風呂でした。ふろに入る時は露店風呂で空の星を見ながら入っていました。今思えばなつかしいです。
 それから一番悲しかった事があります。それは私の隣にいた小椋さんが突然ブラジルに行くといった事です。その人が出発したのは昭和三十五年の六月末頃でした。その別れが一番かなしい思い出として残りました。
 それから私たちも一生懸命頑張って働いてきて現在にあります。今は一番苦しいときでもありますが、楽しい時でもあります。それは私たちも子供三人に恵まれているからです。
 最後に前にも話した事ですがブラジルに行った人と平成二年九月に三十年ぶりに会ったことです。もう会えないと思っていたのが会えたので一番良い思い出になりました。
 これから戦後百年にむけて家族一生懸命がんばっていきたいと思います。
 役員のみなさまはほんとうに有りがとうございました。書きたい事はまだまだ有りますがこのへんで終りたいと思います。ありがとうございました。

22 震えながら仕事手伝い   三瓶富雄

 入植五十年を何かいいますが、私は入植当時小さくてあまり記憶には有りませんが、父は山仕事をしているのを思い出します。その後、私が十歳前後の頃から山仕事の手伝いに連れられて行き、切り倒された木をそりの効く所まで木をまくりそりで出すのを後から押して手伝い、桟橋に来ると震えながら手伝ったのが思い出されます。
 また、広谷地に炭窯を作り炭焼きをしている頃です。夜の夜中に「おい二人で炭窯を見て来い」と言われ、弟と二人でおっかなびっくり見に行ったのですが、まだ煙が少し残っていたのですがもう一度来るのが恐ろしいので窯を留めて来てしまい、炭を出してみたらね燃が出来てしまい叱られたのが思い出します。
 また、嬉しいことも有りました。私が小学校三・四年の頃、父が田んぼを作るのを手伝い姉と二人で高い所からもっこで運び、石を拾い手に豆ができたのを我慢し四アール位の田んぼを作り田植えをしました。
 秋になりコメが穫れ、みんなで喜んだ事を思い出しました。
 まだまだ沢山有りますが……。

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