技術界のパイオニア

 土木を専攻する人は、近代日本の土木史のパイオニアの中に出崎式排水機の発明者出崎栄太郎の名前を見つけるだろう。出崎は安政6年、和泉の国南部の岸和田(現在の大阪府泉南郡)に生まれた。
 小さい頃から機械に興味をもち大工であったが、博覧会で見た英国製の紡績機械を大福帳にスケッチするや、たちまち自分の手で紡績機械を作ってしまうほどの紀要さと、抜群のアイデアの持ち主であった。明治12年、出崎栄太郎は日本で初めての紡績機械を作ったのである。時に21歳の時であった。
 明治25年、出崎は岐阜県の山だ貞策という男から一通の手紙を受取った。これが出崎と山田の最初の出合いだった。
 山田貞策は地元の農業の若手の指導者で、若干25歳である。
 山田は出崎の、木曾の輪中地方の改良について一つの事業を誘いかけたのであった。すなわち、毎年輪中地方を襲う洪水の災禍から百姓たちを救うために、出崎栄太郎の技術を以て排水機を完成させるという計画である。これは13年の歳月をかけて明治38年ついに出崎式排水機の完成を見た。
 八沢浦干拓に着眼したのは佐納栄三郎という岐阜の鉱山技師であった。
 佐納は炭田調査のために上真野村を訪れたのであったが、たまたま鹿島町中村屋の番頭に誘われて見物に行った八沢浦で、すぐに干拓事業という可能性のとりこになってしまった。
 佐納の紹介によってこの地を知った山田貞策は「出崎式排水機をもってすれば感嘆」と出崎栄太郎親子を事業に誘ったのだが、排水のための工事は難渋をきわめ、太平洋という怒涛の大自然と闘うことになる。
 山田は多額の金をつぎ込み、出崎の新型排水機は四万円かけて発注して作らせた特別製のものだったが動かず、大変落胆し、山田は事業の中止を考え、出崎は残念の気持ちを抱いたまま病床に倒れ込む。
 明治40年12月9日の着工から3年、明治43年8月8日、出崎栄太郎は干拓の成功を見ることなく肺患のため開拓地で没した。

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