ロマンチックであるべき筈のあいびきがこういう状況であり、突然の香戸少尉の行動に陽子は絶望的なみじめさを味わう。陽子は「立木にもたれて嗚咽している。涙を滂沱と流して払いもしない。」
 やりきれない。このやりきれなさは、戦時下という状況によるところもある。香戸少尉はどんな約束もできず、すぐにも前線へ駆り出されてしまう。陽子にしてみたところで、行ってしまう香戸少尉の襟章を確かに触っているだけで、二度と再び会うことができないこともばくぜんと覚悟している。
 けれどもこのやりきれなさは、本質的には人生の、そして青春の男と女のやりきれなさである。戦争は、確かに男と女を追い込むことをした。しかしながら、その状況によって悲惨の糸で物語を織るのは、たてよこの男と女の心である。
 私には、この「ロング・ロング・アゴウ」という小説が、ことさら戦争文学という名前を冠されることを好まない。なぜなら、戦争を体験しない世代が、ついに戦争文学を実感としてとらえることはないだろう、といったふうな論調に対して感ずるいやらしさのようなものを含めてであるが、文学が文学として成り立ちうる最大の要素は、そこに追体験の可能な一つの宇宙が呼吸しているということなのではないか。
 戦時下だから、香戸少尉と陽子はみじめなのではない。もともと男と女の出合いがみじめなのだ。それがたまたま戦時下というドラマチックな舞台をえらんだというだけのことだにすぎない。それでなければ、すべての戦争文学は、やがて文学として色褪せたものになり下がってしまうことだろう。戦争体験談はそのままでは戦争文学にはなりがたい。人の心を掘地下げてみせてくれてはじめて文学たりうる。
 じっさい、あわてて歯をぶつけあうという接吻のみじめさも、抱擁の途中で突然催す尿意のみじめさも、戦時下状況とは全然関係がない。むしろ、そちらの方が、具体的生理的な悲惨さの方が感覚に訴えてきて強い。美化してでも書ける戦時下という舞台だからこそそのみじめさを効果的に表現できる。青春の悲惨をそのように感覚的に作品化したもの、としてとらえる方が、この作品は理解しやすい。
 たとえば、汽車がなくて夜道を歩いて帰ることによって自己に罰を加えるという心理的構造は、その考え方が後の「ちっぽけなアヴアンチュール」にも見える。このような考え方は戦争体験に関係なく、島尾の生活をとおしてのものであるらしい。
 しかるに、島尾の作品は、よく言われるような「眼をあけた」作品群と「眼をつぶった作品群とに分けられ、その主題は、戦争体験をもとにしたもの、夢の手法でえがいた超現実的なもの、友人との葛藤、家庭の事情を書いたものと分類されている。
だが、長年にわたって幾度も試みられる戦争体験をもとにする作品も、夢の系列にある作品も、全く別系統のものに区別してしまう考え方を、私は取りにくい。つながりのなかでこそ、島尾の体験から表現への道が解明されるのではないのか。

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