村上春樹も書いているとり、「故郷について書くのはとてもむずかしい。傷を負った故郷について書くのは、もっとむずかしい」(『辺境・近郷』より)
東日本大震災 証言アーカイブス http://ch.nicovideo.jp/f-project/blomaga/ar19014
【第4話】福島県南相馬市/お金も通帳も津波で流されて、わずかな現金でこれからどうなるのか……
2011年3月26日、南相馬市の原町第一小学校の避難所には、92人の人々が避難生活を送っていた。その多くは60歳以上の高齢者たち。地震と津波の被害だけでなく、原発事故の影響もあって混乱していた同市は、7万人いた住民が約1万人しか残っていないと言われていた。その避難所で出会った黒沢さんは、夫や娘が行方不明であるにも関わらず、明るく振る舞って避難所の炊き出しなどを積極的に手伝っていた。
取材者:渡部真 取材日:2011年3月26日
FACTA online – 総合情報誌[ザ・ファクタ] https://facta.co.jp/article/201208006-print.html
「原発20キロ圏」小高区の三重苦
沿海部は見渡す限り泥の海。市街地は上下水道が不通。山沿いの村は線量が高すぎる。
2012年8月号 [被災地は今]
by 現地取材班/宮嶋巌 鈴木浩
島県原発被災地区の復興に向けて http://ameblo.jp/sigahina/
3月11日を境に、僕らは変わった。
また、変わらざるを得なかった。
南相馬市小高区(旧小高町)で、僕は生まれた。
福島原発のある双葉町が、青春の舞台だった。
二つの町に、原発事故による避難指示が発令された。
僕の両親や親戚、また、多くの幼馴染みや同級生が町を離れた。
いつ戻れるかわからない。自分の町が消えてなくなるかもしれない。
けれど、いつかは戻れる日がくる。みんなで町に集う日がくる。
そう信じる。信じるしかない。
その日のために、今から準備をしたい。僕らに何ができるのか。
みなさんといっしょに考えていきたい。  志賀 泉
脱原発文学者の会 第3回福島訪問 テーマ:目的
 2015年6月7,8日、「脱原発社会をめざす文学者の会」(略称・脱原発文学者の会)の第3回福島訪問旅行に参加し浜通り地方の原発被災地をめぐった。参加者は僕をふくめ11人。メンバーには南相馬市小高区出身の僕の他に、被災地出身者として浪江町で被災し埼玉県で避難生活を送っている橘光顕氏(シンガーソングライター)がいる。彼は僕と同じ双葉高校の卒業生でもある。我々は東京駅から常磐線の特急ひたちに乗車し、いわき駅で下車。駅前でレンタカー2台に分乗し国道6号線を北上した。
http://ameblo.jp/sigahina/entry-12039705894.html
 小高の町は表情を変えつつある。壊れた家は次々に撤去されて更地が増え、新しい家が次々に建っている。僕の実家も今年10月に取り壊して建て替え、仮設暮らしの両親が来年4月の規制解除に合わせて移り住む予定でいる。しかし高齢の両親が安心できる医療や介護体制がどれだけ整備されているか、隣近所に話し相手がいるかなど心配の種は多い。帰還を喜んでばかりもいられない。
 「戻る」意思を示す住民は「できれば戻りたい」を合わせても3割程度だ。「戻りたいけど戻れない」住民を差し引けばもっと低くなる。1万3千人の町だったから、戻るのはせいぜい千人だろうと言う人もいる。差し当たって原発作業員を受け入れることで復興の足がかりにするというのが市の目論見だ。寂しいけれど、これが復興の現実だろう。
 いずれにしても、震災前の小高の町に戻ることはない。

一枝通信4月23日号「南相馬・4月22日」 http://o-emu.net/ichie-tsushin/
新しい石碑の文字ははっきりと読み取れ、それによると、大正8年4月に太田秋之助、吉野周太の二人がこの事業にかかろうとしたもののうまく運ばずにいたそうです。
その後、昭和初期の経済恐慌後に太田秋之助さんが12年間を費やして、干拓を成し遂げたのだそうです。
この時に秋之助さんの手足となって働いた二人の青年のうちの一人が、太田組の組頭、黒沢正雄さんで、黒沢さんが現場監督として力を発揮しての干拓事業だったようです。
黒沢正雄さんが、黒沢さんのご主人のお父さんなのです。
私が小高区に初めて入ったのは、2012年4月16日の小高区が警戒区域解除になった日ですが、その頃はこの辺りはすっかり海に戻ってしまったような光景でした。
その後、水も引いて地面が見え道路も現れていましたから、この干拓の碑を読むまでは、黒沢さんの言った「板の下駄を履かなければ、腰まで浸かってもまだ足が潜るような泥田だった」 が、私には真に迫って聞こえてはいませんでした。
12年の歳月と多くの人手を要して干拓されたことを知ってようやく、新婚時代の黒沢さんの田植えのご苦労が理解できたのでした。
宮田川の橋を渡って南方の、向こうに小高い地域は浦尻です。
以前南相馬の博物館を見学した時に、「浦尻貝塚」のことを展示してあったのを見ました。
貝塚は古の人たちが暮らした跡です。
古代の人はあの小高い場所で暮らしていたのだということと、井田川の干拓事業に取り組んだのが昭和初期の経済恐慌の時期だったことと合わせて思うと、考えさせられること、多々ありました。
満州移民の歴史もまた、そこに重なって思えました。     
いちえ

井田川浦干拓地
井田川浦干拓は小高区での大事業であり、相馬郡石神村太田秋之助らによって大正8年(1919)に立案、同10年に工事が着工され、9年後の昭和4年(1929)春に排水開田に成功した。(赤線部分)
■所在地:南相馬市小高区浦尻地内
http://www.pref.fukushima.jp/bunka/kairou/si/49minamisouma.html

2011年12月1日、朝日新聞は次のような記事をネット配信している。それによると、この「浦」の水深は3mに達するところもあるという。

 浦に戻ってしまったような干拓地、潰れたままの民家……。桜井勝延・南相馬市長の視察に同行し、東京電力福島第一原発から20キロ圏の警戒区域にある同市小高区に入った。立ち入り禁止のため地震と津波に遭った当時のまま時が止まったかのようだ。なのに、放射線量は原町区の市役所周辺とほとんど変わらない。
 バスは国道6号から離れ、海岸線へ向かった。見渡す限り茶色の世界が広がる。枯れた雑草の平原だ。水田の基盤整備が完成寸前だったという。
 最初にバスを降りたのは塚原地区。119世帯のうち約50世帯が流失・全壊し、16人が津波で亡くなった。海岸近くに、高さ18メートルほどの松がポツンと立っていた。津波はそれを超えて襲ってきたという。
 道路の海側に、アスファルトが板状のまま転がっている。100メートル以上にわたって壊れた防潮堤は、海側に倒れている。引き波の強さを物語る。
 かろうじて残る海岸に沿った道路を南下する。途中の白鳥の飛来地には、一羽も見当たらない。同行した市職員は「今年は稲作をしなかった。落ち穂がないから来なかったのかな」。
 水がたまった井田川地区が見えてきた。原発まで約11キロで、今回の視察では最も原発に近いが、放射線量は毎時0・18マイクロシーベルト。市役所前(同0・29マイクロシーベルト)より低い。東西約2キロ、南北約1キロにわたって水がたまっている。大正終わりから昭和初めにかけて干拓し農地と集落ができた。それがまったく元の浦に戻っている。深いところで水深3メートルはあるという。
 桜井市長は「住宅は移転するしかないだろう。そう簡単に復旧が進まないことは、ここに来てもらえばすぐ分かる。放射線量は低いのだから、早く作業を始めさせてほしい。そうしないと、住民が『もう戻れない』と思ってしまう」。
 バスは小高区中心部へ。津波被害を免れたが、震災後もほとんど手つかずだ。塀が倒れたままになっていたり、窓ガラスがすっかり割れていたり。JR小高駅通りに差し掛かると、2階建ての洋品店の1階がグシャリと潰れていた。
 仲町で下車した。豪壮な屋根が1階を押しつぶした黒壁の建物が見えた。明治終わりごろにできた蔵造り民家だという。3軒おいた先の民家も壊滅的に崩れている。傾いて隣家に寄りかかっている商店も数多い。
 帰りの車中、隣に座った市職員の言葉が印象的だった。「火災が心配。泥棒は家の中の物を持って行くが、火事は家そのものを持っていくから」。彼の自宅も警戒区域内にある。(佐々木達也)=2011年12月1日朝刊
http://digital.asahi.com/articles/TKY201203290358.html

2012年4月24日から25日にかけて、南相馬市を訪れた。南相馬市では、最近、20km圏内であった小高区が警戒区域指定を解除され、一般人も立ち入ることができるようになっていた。小高とはどのようなところか。Googleマップで位置を確認しておこう。南相馬市の南部であり、海岸線にそったところである。

東日本大震災の被害状況は、それぞれ違う。相馬市松川浦や仙台市周辺では、広大な農地が津波におそわれ、流木、ごみ、自動車、漁船、漁網などが一面に散乱し、すべてが泥に使っている状況が印象的であった。
石巻市や気仙沼市では、それなりに大きな港湾都市が津波に襲われ、市街地・埠頭・工場などが広範囲に破壊されたことをまざまざと見せつけられた。
いわき市久が浜では、津波によって起こされた火災が、それこそ空襲後のように、周囲を黒こげにしていた。
女川や牡鹿半島の漁村では、小規模な漁村がそれこそねこぎにされ、津波の及んだ範囲では、何も残っていなかったことが印象づけられた。喪失感は最も大きかった。
小高は、これらとも違う。はっきりわからないのだが、国道6号線周辺まで津波が襲来した模様である。たぶん、6号線からとったと思われる、南相馬市(これだけでは小高かどうかはわからない)の津波映像が残されている。津波が海岸線に到達した時に津波が爆発したように盛り上がり、海岸線の家や自動車を飲み込んでいく。かなり海岸線から離れた国道6号線に津波は到達し、自動車が流されていく。
国道6号線ぞいには、津波で流された自動車、窓などが破壊された家屋、浸水した形跡のある農地が広がっていた。
小高に残された津波跡(2012年4月25日撮影)
それよりも内陸側の家屋においては、津波よりも地震動による被災が目立った。小高の高台にあり、相馬氏の城館跡である小高神社では、鳥居・記念碑・石灯籠などの石像物が地震によって壊れていた。小高神社においては、復旧の手が入ったようで、大工などが作業していた。
国道6号線の海側に入ってみると、そこにはみたことがない風景が広がっていた。広大な農地であったはずのところが、すべて水没していたのだ。そこには、鷺や鵜が多数生息していた。この写真でも小さく鷺が写っている。
道路は、水の中を走っていた。撮影した25日は霧で、撮影にはよくなかった。特に、水面上の霧は濃い。道路の先行きはみえなかった。
まるで、海辺にあるようにみえるが…。家の向こうにあるのは、本来は農地であったところである。まるで、アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくるような光景である。
むしろ、海岸線のほうが水没していなかった。たぶん、この場所は過去砂嘴にあたるのだろう。しかし、津波の襲撃を受けて、家屋は基礎しか残されていなかった。霧の中に瓦礫の小山が点々とあった。まるで家の墓標のようにみえる。
津波で壊滅した集落跡(2012年4月25日撮影)
Googleマップの航空写真をみて、全体状況をみておこう。ここは小高の南部で、宮田川という川の流域である。本来は農地であったところに、緑色のところが広がっている。このことごとくが水面である。福島県は二級河川宮田川水系河川整備計画(http://www.pref.fukushima.jp/kasen/kikaku/seibihousin/miyatakeikaku.pdf)を2005年に出している。それによると、1908年測量の地図では、この地域に井田川浦という広大な水面が広がっている。
「ふくしまの歴史と文化の回廊集」というサイトでは、このように説明されている。1919〜1929年にこの地域は干拓され、農地となった。しかし、この干拓農地のほとんどの部分がもとの「浦」にもどってしまったといえる。もちろん、これは、津波の被害というだけではない。東日本大震災による地盤沈下の影響でもある。

井田川浦干拓地
井田川浦干拓は小高区での大事業であり、相馬郡石神村太田秋之助らによって大正8年(1919)に立案、同10年に工事が着工され、9年後の昭和4年(1929)春に排水開田に成功した。(赤線部分)
■所在地:南相馬市小高区浦尻地内
http://www.pref.fukushima.jp/bunka/kairou/si/49minamisouma.html

2011年12月1日、朝日新聞は次のような記事をネット配信している。それによると、この「浦」の水深は3mに達するところもあるという。
倒壊そのまま 警戒区域の南相馬・小高区に入る
 浦に戻ってしまったような干拓地、潰れたままの民家……。桜井勝延・南相馬市長の視察に同行し、東京電力福島第一原発から20キロ圏の警戒区域にある同市小高区に入った。立ち入り禁止のため地震と津波に遭った当時のまま時が止まったかのようだ。なのに、放射線量は原町区の市役所周辺とほとんど変わらない。
 バスは国道6号から離れ、海岸線へ向かった。見渡す限り茶色の世界が広がる。枯れた雑草の平原だ。水田の基盤整備が完成寸前だったという。
 最初にバスを降りたのは塚原地区。119世帯のうち約50世帯が流失・全壊し、16人が津波で亡くなった。海岸近くに、高さ18メートルほどの松がポツンと立っていた。津波はそれを超えて襲ってきたという。
 道路の海側に、アスファルトが板状のまま転がっている。100メートル以上にわたって壊れた防潮堤は、海側に倒れている。引き波の強さを物語る。
 かろうじて残る海岸に沿った道路を南下する。途中の白鳥の飛来地には、一羽も見当たらない。同行した市職員は「今年は稲作をしなかった。落ち穂がないから来なかったのかな」。
 水がたまった井田川地区が見えてきた。原発まで約11キロで、今回の視察では最も原発に近いが、放射線量は毎時0・18マイクロシーベルト。市役所前(同0・29マイクロシーベルト)より低い。東西約2キロ、南北約1キロにわたって水がたまっている。大正終わりから昭和初めにかけて干拓し農地と集落ができた。それがまったく元の浦に戻っている。深いところで水深3メートルはあるという。
 桜井市長は「住宅は移転するしかないだろう。そう簡単に復旧が進まないことは、ここに来てもらえばすぐ分かる。放射線量は低いのだから、早く作業を始めさせてほしい。そうしないと、住民が『もう戻れない』と思ってしまう」。
 バスは小高区中心部へ。津波被害を免れたが、震災後もほとんど手つかずだ。塀が倒れたままになっていたり、窓ガラスがすっかり割れていたり。JR小高駅通りに差し掛かると、2階建ての洋品店の1階がグシャリと潰れていた。
 仲町で下車した。豪壮な屋根が1階を押しつぶした黒壁の建物が見えた。明治終わりごろにできた蔵造り民家だという。3軒おいた先の民家も壊滅的に崩れている。傾いて隣家に寄りかかっている商店も数多い。
 帰りの車中、隣に座った市職員の言葉が印象的だった。「火災が心配。泥棒は家の中の物を持って行くが、火事は家そのものを持っていくから」。彼の自宅も警戒区域内にある。(佐々木達也)=2011年12月1日朝刊
http://digital.asahi.com/articles/TKY201203290358.html

「滄海(そうかい)変じて桑田(そうでん)となる」となるということわざがあるが、その逆に「桑田(そうでん)変じて滄海(そうかい)なる」となってしまったといえよう。これほど苛烈な印象を与える被災地はなかったと思う。

近辺には「浦尻貝塚」(小高区浦尻字南台地内)という縄文時代の遺跡がある。この貝塚は高台にあり、津波の直撃は避けられた模様である。この写真で、青いシートで保護されているところが発掘現場であろう。貝塚とは、所詮ごみ捨て場であり、たぶん、集落自体は高台にあって、その斜面に設けられたのではないかと思われる。その麓に現在の民家があり、その前の農地がことごとく水没したのである。
浦尻貝塚(2012年4月25日撮影
ある郷土史研究者は、「南相馬市小高区の縄文時代 (津波で縄文の海に戻った)」とブログ「相馬郷土史研究」で表現している。

今回の津波の驚きは縄文時代の海の状態を再現したことである。一番驚いたのは八沢浦だった。あれだけ満々と水をたたえた入江になっているのに驚嘆した。それだけ凄い津波だったのである。六号線も津波は越えてきた。井田川(浦)は大正時代に開拓されたとなると遅い。丸木船など残っているからここでの漁労生活はずっとつづけられていた。ともかく浜通りは松川浦しか入江がないと浦がないと思っているけどいかに浦が多いか入江が多い場所だったか知るべきである。太平洋の東北でもこの浦伝いに航行すれば船も使える。外海は無理にしてもこれだけ浦があるということは浦伝いに遠くまで行けることになる。瀬戸内海はそうだったが太平洋でも浦が多かったのである。日本は浦だらけだった。そこが牡蠣の養殖の場になり今日につづいている。その浦が今回の津波にのまれた。海に接して集落を形成した所は壊滅した。それは弥生時代から始まった青松白砂の光景はそもそも海だったところを開拓してできたものでありその海だったところは松をなぎ倒して再現された。田や米作りの文明を破壊したのである。液状化で苦しんだところももともと海だったり沼だったりした軟弱な地盤だった。これも自然条件に見合わない作り方でそうなった。人間は自然条件に逆らい生活圏を拡大した。それが大津波で破壊されたのである。原子力発電だって自然に逆らうものでありそれが自然の力で破壊された。

自然はやはり何か人間に対して復讐するということがありうるのか?そういう大きな自然の力を感じたのが今回の津波だった。
http://musubu2.sblo.jp/article/45596335.html

小高を視察した平野復興相は、小高排水機場なども含めたインフラ整備を急ぐことを21日に表明した。小高排水機場は、この水没した農地の排水を担ってきたところである。しかし、排水機場復旧程度で、広大な農地の復旧が可能になるのか。そんな気持ちになった。

東日本大震災:視察の平野復興相「小高のインフラ整備を急ぎたい」 /福島
毎日新聞 2012年04月24日 地方版

 平野達男復興相が21日、浪江町と南相馬市小高区の被災状況を視察した。
 今週初めに警戒区域が解除された小高区について、平野復興相は「上下水道など生活インフラ整備を急ぎたい。どれぐらいの方が帰ってこられるか、把握をお願いしたい」。桜井勝延市長は「住民が住めるようになるまでに、最低でも1年や2年はかかる。意向調査をして、戻れるように環境作りを急ぎたい」と応じた。
 平野復興相は、JR常磐線小高駅に近い小高浄化センターと沿岸部の小高排水機場2件に足を運んだ。浄化センターは海岸から約2・5キロ。4000人分の下水処理能力があったが、津波と地震で損傷した。排水機場は集落とともに津波にのまれ、周囲の水田は水没したままだ。市の工程表では、両施設は13〜14年度に復旧の見通し。【高橋秀郎】
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20120422ddlk07040110000c.html

南相馬市が2011年9月に作成した「緊急時避難準備区域解除に係る復旧計画」によると、次のように農地などが被害を受けている。これは、南相馬市全域であり、小高だけではなく、北側の原町区、鹿島区の農地も含んでいる。浸水した農地は総計で2722ヘクタールに及んでいる。単独の市町村では、これほど広い面積が浸水したところはないようである。まさに、大自然の脅威を実感した。これほど、人の無力さを感じたところはない。
・浸水した農地 対象面積 2,722 ヘクタール
・除染すべき農地 対象面積 8,400 ヘクタール
・除染すべき森林 対象面積 21,947 ヘクタール
http://www.city.minamisoma.lg.jp/mpsdata/web/5220/fukkyuukeikaku.pdf

しかし、後段の数字をみてほしい。8400ヘクタールという、浸水農地の約3倍の農地が除染すべきとされている。さらに森林を加えれば、約11倍の農地・森林が除染すべき土地としてされているのである。これは南相馬市だけの数字だ。南相馬市は、比較的放射線量が低いとされている。それでも、津波被災をはるかに凌駕する広大な土地が原発災害で被災しているのである。
農地を「浦」にもどし、縄文時代の環境を再現してしまった津波。しかし、その被災地をはるかに凌駕する広大な土地を被災させた原発災害。そもそも、これほどの大自然の脅威に人の手が容易に打ち克つわけはない。しかも、人の手で作られた原発が、大自然の脅威よりも深刻な形で、私たちの生存を脅かしているのである。
東日本大震災による大自然の脅威と、それを凌駕する広大な土地を被災させた原発災害。2011年の脅威をもっとも体現しているのが、この南相馬市小高だと思う。想像を絶する脅威と、想像すら許されない脅威に直面した地が、小高なのである。

最後に、小高・浪江の境界付近にある、検問所をしめしておこう。この向こうに福島第一原発がある。
立ち入り制限の検問所(2012年4月24日撮影)
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