フクシマ・ノート#11
          DASH村盛衰記 浪江町津島の記録
                二上英朗
◆80歳で引退したいという被災地浪江町議からの依頼
 311津波と東京電力の福島第一原発事故の複合災害で全町民避難指示の出ている双葉郡浪江町は福島県内で唯一市のない双葉郡最大人口の避難民を擁する自治体だ。町会議員で最長老の三瓶宝次さんが来春引退を考えているという。三瓶さんの自宅は町内でもっとも放射線量の高い津島地区にあり、311から最初の2週間この津島地区に避難した浪江町民が無用の被曝を被ったことや、いまだマスコミに詳報されていない経過を記録して支持者や町民に報告したいと考えている。
 地上から消滅するかもしれない津島の歴史から、この311最初の二週間の実態、生まれ故郷と住民のために働いて来た自分の営為を記録にしてまとめたいとの思いを相談され、私は記録集の編纂を開始した。現職で、国と東電に対する津島地区住民への完全賠償を求める裁判の相談役として激務のあいまの7月26日に福島市飯坂町の現在の住まいを訪問して第一回目の打ち合わせをした。
 実は三瓶さんとは2013年7月23日に初めて面会している。三瓶さんは実は日本テレビの「DASH村」という人気タレントグループTOKIOが主演する東北の純粋な山間の農村の魅力を農作業を実際に体験してわかもの世代に発信するバラエテイ番組に敷地を提供している地主オーナーでもあり、その裏話を取材したのである。
 三瓶さんはそのころ福島市南部郊外のしのぶ台という団地の空き家を県が提供する借り上げ住宅として住んでいた。入るとすぐ居間には自民党の衆議院選挙候補のポスターが貼ってあった。三瓶さんは自民党に所属する政治家だから当然なのだが。
 「なあんだ議長。原発さえなければ、と騒いでいる福島県で、まあだ原発再稼働を公約にする自民党を応援するのか」と、敢えて挑発してみた。
 「だって自民党しか復興できねえべした」と彼はぶぜんとして返答した。
 そのころから本をまとめたいと語っていた三瓶さんに、じっくり執筆する時間はない。あれからもう3年たっていた。今年の3月には「しんぶん赤旗」の紙面に載った。(注1)三瓶さんは、共産党の馬場績町議と二人で津島地区選出の地元町議として立ち上げた「ふるさとを返せ完全賠償裁判を求める会」の共同代表になっていた。
 現在は福島市の飯坂温泉の一画に二棟の借り上げ住宅を借り切って、一棟は政治活動の拠点に使用している。母屋玄関には「食べて応援」のTOKIOメンバーの福島支援ポスターが飾ってあった。居間には日本テレビスタッフと記念撮影する津島地区の農家の仲間たちのスナップや、TOKIOメンバーとの和気あいあいの写真があった。
 ためこんだ資料を整理し読んでまとめてくれないかという依頼で、彼の故郷への思いと人生の夢まで、聞き書きと記録で形にしようというチャレンジが始まった。
◆これはただごとではない
 2011年3月11日午後2時46分。浪江町議会の議場で。午前に終わった中学校の卒業式にそれぞれ出席した町議が町役場庁舎の4階で全員協議会に集合していた。
 その日その時、三瓶宝次町議も浪江町議会の議場にいた。新年度予算編成の定例会が開かれていた。ほかにも条例改正案件、補正予算などが審議を待っていた。
 突然、激しい揺れが来て、ガラス戸や机がガタガタと揺れ出した。
 「地震だ!」誰かが叫んだ。地震は記憶にないほど強く、横揺れで立っていられない。片手で机の端を押さえ体を支えようとしたが、机も揺れ動き支えにならない。両手で机の端を、中腰になって体を支えているのがやっとだった。
 そんな姿勢でどれだけいたことか。長かったような、短かったような。
 「もしかしたら町に大きな被害が出ているんじゃないか」
 議会は急きょ休会され、町と議会はただちに情報収集にあたった。
 だが電話もつながらない所が多く、詳細はわからない。そのうち太平洋岸の請戸の港を見て来た人がやってきて報告した。
 「漁船は多数流されている。港はもうメチャクチャだ。」
 報告は深刻な事態を告げていた。
 インタビューで見えてきたのは、浪江町住民の典型的な被災と避難の物語だった。
◆312福島中央テレビだけが撮影していた一号機爆発の瞬間
 3月12日午後3時30分。一号機建屋が爆発した。
 確たる情報がないのでテレビをつけっぱなしにして報道を見ていた。
 たまたま地元地方テレビ局のFCT福島中央テレビを見ていると、白い煙が見えた。
 「なんだ、この煙は」
 写しているのは福島第一原発の南南西約17キロの山中に設置されている無人カメラである。24時間監視できるようにしてあった。勢いよくかなりの上空まで煙が立ち上っていった。建屋が爆発しているのがわかった。
 午後3時40分、放映中の全国放送に割って入って、爆発の映像を流した。防災用のヘルメットを被ったアナウンサーの大橋聡子がカメラに向かう。論評や解説は一切なし。7分余りの間、大橋は見た映像をそのまま言葉にし続けた。
 「先ほど福島第一原発から大きな煙が出ました。北に向かって流れているのがわかるでしょうか」
 この一号機の異変は、総理官邸の菅首相にも伝えられたが、白煙が上がっているということだけが報告された。
 午後4時49分、日本テレビが全国放送で爆発の映像を流した。福島中央テレビから日テレ系列で全国放送されたのである。

◆ 「ザ!鉄腕!DASH」「DASH村」がやって来た
 日本テレビは三瓶宝次と因縁がある。「ザ!鉄腕DASH!」という人気アイドルグループが主演している若者向け自然派の農村文化啓蒙番組のコーナーである「DASH村!」のロケ地探しの段階で、TOKIOメンバー自身が渉猟して探し、ここが最適と判断したのが三瓶さんの土地だった。
 日本テレビの番組を担当するプロダクションから白羽の矢が立った。典型的な東北の山村の町会議員は、田舎の農村地区をどうしたら活性化できるかと腐心していたところだったので、テレビ番組撮影終了の後もリゾート・自然パークとして売り出せると思い、全国の視聴者が注視するテレビの中の「DASH村」の土地提供者となった。夢が膨らんだ。
 三瓶さんは主演のTOKIOメンバーに紹介されて、快活な若者の気さくで健康的な率直さがすぐに気に入った。メンバーもまた、朴訥で誠実なロケ地の地主のおじいちゃんを愛した。三瓶さんはDASH村の相談役を頼まれている。
 DASH村については説明するまでもあるまい。日テレの看板番組である。
 日本地図にDASHの文字を載せる事を目的に、新たな村落を作るプロジェクトとして2000年6月4日放送分よりスタート。月3万円で借りられる土地を条件に城島茂と山口達也が見つけた2つの候補地(生活に重点を置いた1万3000坪の現・DASH村と、広さに重点を置いた採石場跡のような12万坪の場所)から、同年7月24日放送分にてインターネット視聴者投票で選ばれた。まさに浪江町津島地区がこれだった。
 登場する農業指導者や大工指導、田圃つくり、火の見櫓の鐘の鋳造、薪づくり、炭焼き、など農村での多く野仕事は実際に地元の津島の農民が出演して指導した。三瓶夫人の孝子さんも「漬物名人」としてブラウン管に登場して、活躍した。
 当初はロケ地に一般人が殺到すると撮影に影響するので、DASH村の所在地は明かされなかった。しかし、田舎の情報は人間で伝わる。番組が始まってすぐ、若者向け番組にしては日本の農村に着目して、古い時代の日本人の生活の知恵に敬意を払った制作態度が気に入って、「村は浪江の山にあるらしい」という風聞を頼りに津島の現場で聞きあたると、場所はすぐわかった。地元の「政経東北」という雑誌に「ダッシュ村は浪江町津島にあった」というタイトルでレポート記事を書いた。(注2)
 2003年に、村のスタッフが役場と称する古民家で、てんぷらを揚げていたが、てんぷら料理の火が木の壁に燃え移って建物が全焼するという火災事件が起きた。浪江町の消防署に通報したことが、翌日の地元新聞福島民報に記事となって出てしまった。しかもテレビ局が秘密にしてきたDASH村の所在地が出てしまったのだ。
 「でもねえ。TOKIOのメンバーも火事の跡の片づけをしてましたよ。村人になった都会育ちの若者がちょっと目を離した隙に、燃え移った。これで隠してた村の場所がわれちゃったわけさ」
 9月3日、追加の資料を運び込むついでに我が家で二回目の取材インタビューと打ち合わせで三瓶さんは、村の沿革エピソードを披露したのである。

◆甚大な津波被害 福島県浜通り地方の被害続々
 浪江町井手地区も町の山あいの地区で、ここの井手さん夫妻はのちに我が家が提供した県の借り上げ住宅で生活するようになったが、311の瞬間の体験を生々しく語った。
 井出夫人は軽四トラックに5歳年長の友人を乗せて、いわき市の病院に入院中の知人を見舞っての帰途につき、3時46分ころに久の浜の国道6号線を北上していた。
 「海に壁のような煙のようなものがみるみる立ちあがって、頂上が白く波が砕けていたので津波だとわかった。すぐに車を止めて山のほうに走って逃げようと友人と手をつないで走りだしたところに、いきなり波が襲ってきた。それで手が離れてしまって、友人が波にすくわれて転んだのを見たのが最後だった。わたしは波に押し流されて山のふもとまで押しやられた。車も木も帰り波に勢いよく海にもってゆかれたが、わたしだけ木にひっかかって止まって一命をとりとめた。波が引いてから友人を探したが、もうどこにもいなかった。真夜中になって、やっと帰宅したら、家は地震で粉々になっていた」
 大家と借家人という関係なので何度も顔を合わせて、いつも津波の話になる。誰にも小説のような劇的な体験談がある。これを仕事で聞き取りしたり記録するなら、正直若い世代の物書き志願の人材に任せたい。わたしはたまたま家を双葉地方の被災者に提供したいと不動産会社に申し出た。それがたまたま担当者が浪江生まれの女性だった。彼女の父親が元の町会議長の三瓶宝次さんだったのである。
 父の仕事の大変さ。流浪の民になってしまった浪江ほか双葉地方の被災者同胞のために、何か役立ちたい、という思いが、私を父親につないだのである。
「一日か二日で収まるだろう」
 昨年ノーベル文学賞受賞したべラルーし女性作家スベトラーナ・アレクシェービッチの作品のチェルノブイリのレポートを読むと似たセリフがたくさん出てくる。
 それは三瓶さん達も同じ思いだった。だが、地震の被害は想像をはるかに上回っていた。
 同年4月27日、福島県に限っても大地震による死者、行方不明者、住宅被害、農林水産部内の公共施設の被害状況を県が発表し、これによると死者1933人、行方不明者216人、住宅被害は23万149棟、震災被害総額は5915億円にも達する。
 また死者が出た市町は20市町。南相馬市が631人で最多。次いで相馬市が457人、いわき市310人、浪江町181人、新地町114人、富岡町69人、双葉町53人、大熊町42人、楢葉町33人を超えた。行方不明者はいわき市が最も多く37人、南相馬市7人。
 調査対象48市町のうち半数近くの20市町に死者や行方不明者が出たことになる。
 農林水産部門関連の公共施設の被害は別表のとおり、計70億6450万円、土木部関連は3162億201万円。県内10漁港の被害は70億6450万円。水産被害では、漁船8737艘が被害を受け、漁港では松川浦、請戸が最も被害を受けた。

◆これは殺人罪じゃないのか?
 3月12日、一号機で水素爆発が起こる二時間前、文部科学省所管の原子力安全技術センターに、漏れた放射能物質の拡散を割り出すためのシミュレーションを実施していた。
 その結果、放射能物質は浪江町津島地区の方向に飛散していた。
 しかし政府は、その事実を浪江町と住民に告げなかった。SPEEDIである。
 この結果は文部科学省からデータを送られて福島県も知っていたが、福島県も浪江町に知らせなかった。あろうことか東京電力・原発事故の連絡も告げられなかったのである。
 福島県は12日夜には東京の原子力安全技術センターに電話してSPEEDIシミュレーション情報の提供を求め、電子メールで受け取っていた。情報だけ受け取り、浪江町に連絡せず、メールはその後削除され、受け取った記録さえうやむやにされていた。
 3月15日に津島から避難した住民に、県からSPEEDI結果が伝えられたのは、二か月後の5月20日のことである。県議会ではこの事実が問題となったためだ。
 福島県の担当課長は、5月20日、浪江町が役場機能を移していた二本松市の東和支所に釈明のため訪れた。
 「これは殺人罪じゃないのか」
 町長の馬場は、県職員に強く抗議した。
 馬場によると、県の担当課長は涙を流しながら「すみませんでした」と言い、SPEEDI結果を伝えなかったことを謝罪したという。
 のちに報道から判明した理由では、県の担当部局のノートパソコンのメモリー容量が小さいため、膨大な地図情報データが次々に流されてきたため、最新データだけを残して記録せずに削ったという。
 立地町村の県民の生命健康にかかわる「いざというとき」の原発の苛烈事故の想定に備える段階から不備があったのである。
 広大な県土のすべての災害情報が、数名の防災職員にどっと襲ってきた。
 責任官庁に優先順位の意識なく、原発事故に反応はしてもパニックそのものだったことがわかる。
 これが安全神話の実態であった。
◆DASH村メンバーが一ケ月目に再会し三瓶さん夫妻を激励
 三瓶宝次町議と孝子夫人は二本松東和支所に仮役場を移動させて被災町民の集団を仮設住宅が出来るまでの仮の避難所を確保して分散宿泊させると、みずからは福島市しのぶ台団地の不動産業者に嫁した娘の家に身を寄せた。のちには同団地内の空き家を県の借り上げ住宅として借りて二年間住むようになり、ここで初めて私は三瓶町議に面会したが、宝次さんは一枚の額写真を示した。311の一か月目に、日テレのDASH村撮影スタッフとTOKIOメンバーが避難している三瓶さんを見舞いに来てくれた時の記念撮影写真だ。
 この時の様子はDASH村の一回分の番組として放映されている。2011年4月24日放送。
 「DASH村の浪江町から避難した三瓶孝子さんをTOKIO城島リーダーが訪問。
 鉄腕DASHで2000年に企画を開始したDASH村も3月11日の震災の影響で大きな損壊はないものの作業は中断。4月24日の放送ではDASH村が東北の浪江町に位置することも明かされ同町のお世話になった方々も避難を余儀なくされているということでした。浪江町を離れ福島市で避難生活を送るDASH村でお世話になった三瓶孝子さんとご主人宝次さんは娘さんの御宅に同居をされていました。
 訪れた城島茂リーダーと再会するとお互い懐かしさと言葉に出せない感情がこみあげ抱き合う事でそれを伝え合いました。10年まえに村で会った子供たちや親族、村で働いていた村人たちも次々と寄ってこられて「同窓会みたいやな」とリーダーも涙を溜めながら微笑んでましたね。
 番組ではTOKIOメンバーが今後の決意を語ってましたが、中でも松岡くんの「やめるのか。進むのかといえば俺は進むしかない」と必ずDASH村を蘇らせるとの言葉に未来が見えた気がしましたね。」(注4)
 この時の様子をあらためて三瓶さんに聞くと、TOKIOメンバーの気持ちの熱さを思い出すかのように「抱き合って再会を喜びましたよ」と語る。お母さん役だった孝子さんは「漬物達人」に、その後に番組がロケ地を変更した先で入手した漬物を手土産を孝子さんたちに手渡した。まるで実家に帰省した子供のように。
 TOKIOは、のちにも震災発生二ヶ月目に全国コンサートに浪江町の被災者700人を招待した。(注5)
 「第2の故郷・DASH村がある浪江町と福島県の復興にTOKIOの5人が乗り出した。まずは、メンバーがお世話になっている三瓶宝次・浪江町会議員を通じ、避難所などから浪江町民700人を招待。10日の公演にも別地域からの福島県民300人を招待し、2日間で1000人の被災者がTOKIOのステージを楽しんだ。
 松岡昌宏(34)は「DASH村があることはもちろんだけど、間接的にいろんな人にお世話になっている。TOKIOにできることは何だろう、音楽を聴いてもらおう、と思った。元気になってもらいたい」と招待の理由を説明。
 浪江町は現在、福島第1原発事故の避難区域に指定されており、メンバーはおろか、町民もDASH村には入れない状況で、山口達也(39)は「いつ立ち入れるかはわからないけど、土壌改良が必要なら僕らがやってもいい。政府がやるよりは僕らがやる方がメッセージになる。僕らの村なので僕らが取り戻したい。行きたい」とDASH村と福島復興にかける熱い思いを吐露した。
 ステージでは、冒頭で長瀬智也(32)が「今日は実は被災地から会場に足を運んでくれてます。僕らとみんなでつくったこの熱い空気を持って帰っていただきたいと心の底から思ってます」と話すと温かい拍手。
 ヒット曲「宙船」では、混声合唱団50人がアカペラで合唱し、会場のロビーには福島県産のバラが飾られた。」

 さらに福島の放射線汚染の風評によって福島産の食品が買われないという状況を打開するために政府主導で展開された広報「食べて応援」キャンペーンにも積極的に協賛出演した。現住所の飯坂の三瓶氏住宅を訪問した玄関先に、このTOKIOのポスターが貼りだされている。ネットでは、この「食べて安全」が大本営広報だとして猛烈なバッシング批判されているが、TOKIOメンバーには政治的な意図は皆無だろう。三瓶夫妻に対する自然な支援なのだ。DASH村の立ち上げから農業指導にあたったのは、宝次さんの縁戚の三瓶明雄さん。(注6)明雄さんは外見は宝次さんとうり二つ。町議会の活動が忙しいので土地の管理を明雄さんにまかせ、一躍明雄さんはその朴訥な風貌と組めども尽きぬ農業指導や大工仕事の博識と技量の巧みさでたちまちブラウン管の英雄になった。原発事故のあと、急性白血病で亡くなった。実際の理由は不明で、地元新聞「福島民報」に訃報が載って以来ネットでは「放射性降下物の被曝で死んだのではないか」と疑心暗鬼の書き込みの嵐が吹きすさんだ。
◆ふる里喪失を危惧し裁判原告団の母胎「完全賠償請求を求める会」共同代表に
 宝次さんは今、完全賠償原告団の相談役として忙しく町民の結束を固めて、ふる里を喪失するかどうかという瀬戸際で戦っている。
 しかしもう年齢も80歳になろうとしている。つい最近も天皇陛下が高齢を理由に公務執行の困難を直接国民に語りかけた。60歳で保険会社勤務を退職してから、村人たちから推されて町会議員になったが、70歳すぎたら辞めてのんびり余生を楽しもうと思っていた。それが311で、人生でもっとも困難で忙しい役職をすることになった。そろそろ実際に幕引きしてもいいと考え、来春80歳を迎えるので引退したいと考えている。
 浪江町は来年3月31日に避難指示解除を目途にするという。JR東日本は常磐線の浪江駅まで開通させる見込みだ。しかし、住めるのは20%の限定された一部地区のみ。放射線量の高い津島は依然として帰還困難区域のままである。DASH村相談役三瓶宝次町議はいまだに悩ましい。
注1)しんぶん赤旗コラム「潮流」2016年3月16日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-03-16/2016031601_06_0.html
注2) 月刊「政経東北」平成13年7月号
注3)DASH村 https://ja.wikipedia.org/wiki/DASH%E6%9D%91
注4)芸能エンタメスクープ!裏エピソードお宝ファイル「DASH村の浪江町から避難した三瓶孝子さんをTOKIO城島リーダーが訪問。」http://hotdaysdown.seesaa.net/article/197689485.html
注5)日刊スポーツ。http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110512-774449.html
     デイリ―スポーツ:http://shizuka1.blog12.fc2.com/blog-entry-518.html
注6)三瓶明雄 http://matome.naver.jp/odai/2140203271448784801

三瓶宝次の経歴 昭和11年8月24日、浪江町大字下津島字小塚63番地の1に生まれる。父は営林署職員。双葉高校を卒業したが、浪江駅から下津島は最も奥にあって遠隔のため、双葉町に嫁した叔母の自宅に寄留して通学した。昭和30年に卒業して同年春、津島開拓農業協同組合に就職。昭和41年に三井生命保険相互会社に入社。昭和52年に同社を退職し、中央不動産株式会社に入社。昭和58年まで勤めあげて退社。以後農業に従事。現在に至る。
平成5年より周囲から推されて浪江町町会議員に出馬し、当選。6期24年間をつとめる。

(初出:『ゲンロンβ #9』2016年12月9日号)

毎日新聞
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/290.html

浪江町津島の記録を後世に

浪江町津島の記録を後世に

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