2・10松本孫右衛門の人生①~③


昭和2年のことである。フランスのパテーという映画会社のフィルムを輸入して、全国の活動写真館に配給していた会社が株式を募って大日本活動株式会社という心会社を創立した。いまいう日活の誕生であった。映画という心メデイアは、たちまち娯楽の殿堂と呼ばれた当時の活動写真館の人気の出し物となり、やがて多くの若者が、音の出るトーキーという装置の発明に挑んだ。日活は、大正時代から繁栄の時代に原敬という岩手県出身の政治家が率いて、昭和の田中角栄のごとく、日本を経済の牽引車として次々に、景気を引っ張っていった。全国に鉄道を敷き、これも今と同じように利権とともに、地方すみずみまで拡大し、庶民はおおいに喝さいしたが、大正10年に駅頭で射殺された。あまり優秀な政治家だと、ねたまれて殺されることがある。かれの遺体は、常磐線を北上して、郷里の盛岡まで運ばれたが、ぼくの常磐線の歴史の新著には、その棺に最敬礼して見送る原ノ町機関区と駅員たちの姿がえがかれている。
さて、昭和になって、原敬の荒廃の政友会総務という要職にあった浜通り選挙区から選出された、原町の松本醸造の何代目かの松本碩三という青年が、小野義真日本鉄道社長に気に入られて、いわき平駅から岩沼駅までの枕木をすべて納める偉業をなしとげたが、あまりの安値の入札のため、大損をした。

これが東京物理学校を卒業したばかりで、土木業を始めた碩三の最初の仕事だった。小野に呼びつけられて「お前は大損をしたろう。なぜあんな無茶な入札をしたのか」と聞かれて、やせ我慢でこういった。「私個人の大損は、わたしが存するだけですみますが、それはすなわち国家の利益であります」と。
もちろん、記念すべき大事業を、常磐線の開通という記念すべき事業でぜひとも入札したかっただけである。この失敗で、いかに相馬の殿様から先祖の松本孫右衛門が酒造の権をもらって原町一裕福なご三家の一だとはいえ、さすがに破産しそうな状態だったが、なんとかるさ、と度胸はあった。
日本鉄道会社社長の小野義真は、長州ファイブとして英国に幕末日光して鉄道について学んでかえった井上勝と、大富豪になった岩崎小弥太とトリオで鉄道を全国に瞬く間に拡大して、日本資本主義の礎を作り上げたのである。この三人の鉄道の父たちは、のちに親友の証として、風光明媚な豊かな土地を岩手にもとめ、三に頭文字を合体させて「小岩井農場」という瀟洒な記念の牧場を開いたのである。

さて27歳で原町選挙区の町会議員と県会議員になるなど、松本碩三はめざましい政治家の道をまい進していた。このころには小野社長に「お前は大した奴だ」と大いに気に入られて、損した分だけ儲けろ、という意味を込めて、いわき平駅から岩沼駅まで、すべての駅舎建設を任せたから、たちまち儲けは原町でも有名な大正ロマンの、いま銘醸館と呼ばれる松本の選挙事務所を後世に残したほどであった。
この金満家の金を狙ったのが、創刊たばかりでつぶれる運命を迎えた歴代の福島民報社を救うてもらうために、原町の松本に泣き込んだら、美文をもてあそぶ記者ばどいらぬ。俺が社長になって、もうかる新聞にしてやる、と誰の考えないようなアイデアと経営術で、福島県を代表する新聞社に仕立て上げた。
こうして、政友会の政治機関紙から一般商業紙に変貌させた松本碩三は、新聞の力をフルに活動させて、原町の相馬野馬追を全県に喧伝し、はじめてまともな新聞にしたのである。
のちに民報は、内部分裂して、もう一つの福島民友というもう一つの大隈系の三春の自由民権派の仲間で河野広中とという男が、大臣になりたくて自由党から、大隈派へくらがえした。もちろん、政友会の松本(孫右衛門を襲名)に説得されたものの、虚名だけは有名な河野広中は、鉄道には反対するわ、福島の美風を守れと言って経済発展には反対するわと、とにかく反対ばかしているおとこだ。
河野は、いま福島県庁の中庭に、立派な銅像が建てられているけれども、今の自民党の知事の系譜と同じで、県民を苦しめるような、金だけもらってぐずぐずと原発を容認しつづけて娘を一流企業の東京電力にもぐりこませた佐藤栄作佐久から、民主とといいながら会津の渡部恒三の甥御だというだけで知事になって、集まりの最期に決まって「ふるさと」を独唱した佐藤雄平氏。
東京電力の社長が県庁にあいさつにきただけで逃げてまわった佐藤雄平氏は、プルサーマル導入に反対しつづけたが、栄佐久、雄平らの佐藤知事シリーズで、jビレッジという流行りもののサッカー場を楢葉町に貰って、おひざ元の郡山市には郡山一のタワーだったか、科学館だったか、ことあるごとに公然たるわいろみたいな巨額の寄付金を、県の目の前で原発おんれいの金を、知事に手渡してきた。新聞は、その寄付金ンお制す津についても林彪せず、ただ広報を垂れ流しつづけた。今もそうだ。
書かせてもらった。
ああ、すっきりしたなあ。