昭和五十二年校長佐々木裕之氏、PTA会長伊丹希偉氏により創立二十五周年記念式典開催時には児童数が八十五人と年々減っていき校長小松真氏、PTA会長橘川孝志氏のころには児童数も減り昭和五十八年四月には名目上統合となり津島第二分室とあらためられ昭和五十九年三月二十三日閉校となり津島小学校に統合し児童はスクールバスで登校することになった。
 婦人会と学生に対し、一戸十羽以上の鶏を飼って販売して生活費に充てるために計画をして、高橋清重氏が育雛所を建設し春秋二回各開拓地に雛を配布して開拓組合では卵を三輪車で集荷し、その売上で学費や家計に充てるなどして助けられたのであります。
 中学生は卒業すると金の卵といわれ東京方面に集団就職が始められ毎年過疎が進んで来て人手不足のため農家は農機具の導入が始まり機械化農業となって来たが野鵜地の少ない農家の方は支払いに困るようになって来て、当時只見川原電開発によるダムの工事のため人夫の募集をしていたので出稼ぎで収入を得ることに専念するようになった。
 会津の電源開発が終わるころになると双葉郡に原子力発電所建設が始まり原発工事に通って働くようになった。
 そのころになると家庭も安定し生活も良くなって来ました。昭和四十三年には診療所が新築され医師も常駐し入院も出来る施設であるので安心して生活出来るようになって来た。
 昭和四十四年農村集団電話の導入となり、松平勇雄参院議員、通産省や仙台福島電話局長に請願をし世話をして下さった津島郵便局長氏家茂氏、農村集団電話施設会長、町議氏家治氏、手続き事務武藤藤夫氏によって募集が始まり全戸が加入し自己資金で施設が出来るようになって来た。この電話施設のおかげで東京に住む子供達とも話が出来て身近になって心の中ではとても嬉しく思っていましたし、病気の時は診療所に電話をしますと往診をしてくれますのでこの上ない悦びであります。
 昭和四十二年には開拓婦人会の活動によって県より九十万の補助金を受けることになり津島開拓婦人ホームが下津島字町の役場津島支所の隣に完成され、開拓ばかりでなく津島地区全体の会議場として毎月のように使用され、津島公民館もこの会場で助かったのであります。
 
 畑作は、秋に麦を蒔き(十月~十一月)春に麦踏みをして六月~七月に収穫するが、曽の間に大豆を蒔く、馬鈴薯を収穫すると大根、白菜を蒔き、その間を平鍬でうなって麦を蒔く。そばは年三回春、夏、秋と収穫し一年中畑は休みなく二毛作から三毛作と利用して食糧増産に努力している。

 和牛の導入により仔牛の生産が年々増えて来たので、南津島字西之内にせり場を建設し春と秋の年二回せり市を開設していた。開拓地には牧草地やサイロを奨励し飼料を増産し和牛や乳業の導入を行い飼育し生活の安定を図って来た。

 水田は八十八夜が過ぎると種浸しをする十日~十五日浸して芽出し保温をして七日位たつと籾は芽を出します。苗床は四本鍬で耕って畦塗りをして、平鍬と四本鍬で苗床を作り手で均して整えて種子をバラ蒔きする。
 播種後四十五日~五十日目に田植えの適期となる。
 朝四時頃より苗引をしてチドリ結びに束ね一日分は九時頃に終わり、苗を天秤棒やタンガラで背負って運び、本田に植える。
 本田耕起は、彼岸のぼた餅を食ったら始めるものとしていた。
 田植えが終わる頃となると春蚕が掃立てして渡される。忙しく桑の葉を取り始める。一日五六回桑掛けをして、二十六位で上簇する。
 一年がこの繰り返しで働いて来たので現在は生活が安定して来ている。

 このよろこびに感謝し孫末代幸せが続くように入植五十周年記念式典を催いして喜びを共に分かち合うのであります。
 高橋清重

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