今野洋一 昭和15年6月12日生まれ。73歳。浪江町大字下津島字町41番地。
二本松市中の目100塩沢運動公園仮設住宅6-5

バンカラな高校時代 腎臓病に冒され人工透析
ギャンブル、庭造りに熱中 落首に託す避難生活

出生
 父春一、母キヨの長男として、太平洋戦争開戦一年前の昭和15年6月12日に生を享けた。名前は太平洋を制する願いを込めて、黒木の叔母が命名したと聞いている。兄弟は長女征子、次男美博、三男正四朗の3人。
 妻は和子。私とは対照的に、名前は早く平和になってほしい願いが込められたそうである。妻の生年は終戦一年前の昭和19年12月6日で、私と月日が反転し不思議な因縁を感じる。
 
幼年時代
 幼年時代の遊びは、陣取り、缶蹴り、そり遊び、野球など。
 子供といえども縄張りはあって、私達の遊ぶ範囲は家がある町組周辺に限られていた。他の集落まで遊びに「遠征」するにはそれなりの勇気が必要だった。
 近所の国分幸、今野豊日子、氏家床屋の正一、正二さんの兄弟、それに当時近隣に住んでいた国鉄の運転手の子供達など数十人が群れて遊んだ。
 詳しいルールは忘れてしまったが、陣取りは道路端にある原虫を利用する遊びで、鬼役が「だるまさんが転んだ」と三回唱える間に隠れ、見つからないように鬼の隙を見て電柱を次々に攻略する単純な遊び。電柱は子供にとって絶妙な間隔にあった。近くの国分商店脇の通路などを利用して隠れた。
 そり遊びは、国分の後ろの山にある愛宕様の参道を一気に滑り降りた。夏になるとそり遊びができないので、幅広の板に車輪を付けて坂道を乗り下りた。車軸を通す穴をあけるため、近所の家から穴あけボルトを借りるなど全て自作した。ソリも車も、子供達は一代づつ持っていて、乗る時には米俵の蓋部分のサンダラボッチを敷いた。
 ソリといえば、豊日子くんは、先端が上向きに丸く巻き上がった見事なものを持っていた。当時は各家に、旧家には作男がいて、農作業などをしていたが、その人が作ったもので、私などは羨ましかった思いがある。
 山の物も摘んで食べた。イチゴ、クワゴ、アケビなど。郵便局前にあった小学校の校庭に見事な桜の大木があって、サクランボを採って食べた。また氏家庄一くんと一緒に弁慶石付近まで遠征して、沢で魚を獲った。ヤマメがうようよいて、ザㇽでガサッ、ガサッと掬い上げた。
 私達の水遊び場だった町の堰の下に、初夏アカハラ(ハヤの腹部が鮮やか染まるためそう呼んだ)が、産卵のために集まる。堤の下は川幅が広く綺麗な砂地になっていて、大きな岩がゴロゴロしていた。そこに魚が寄り付くように石を並べた。踏み入れた足の下まで潜り込んでくるほどで、石の下に手を差し込んで手づかみにした。子供でも手桶一杯採れるほどたくさんいた。私達は大きな岩に名前を付けた。象石、牛石、腰掛け石、イルカ石、キノコ石など。また、浅瀬にヤツメウナギが寄り付くと、春が来た、と感じた。当時は沢山いたが、現在ではほとんど見られなくなってしまった。

 大川(泉田川)と集落の間に、町の堰から引いた小川(用水掘)が流れている。綺麗に透き通った川中に水草が流れに揺れ、ウグイやハヤ。イワナ、ヤマメが泳ぎ、カミサマ・シオカラ・オニヤンマなどのトンボが舞った。集落の人々はこの川出顔を洗い歯を磨き、米をとぎ、野菜を洗った。風呂水も汲んだ。各家には井戸はあるが、鶴瓶で水を汲み上げるのは大変なので、川から手桶で水を運んだのだ。
 小川の洗い場では、近くに住んでいた中山医師が毎朝一番に完封マッサージをし、追いかけるように集落の人達が集まって思い思いの作業をしていた。そこは地域の人人の一種のサロンであり、社交場になっていた。大雨の後などにはたくさんの魚が遡上し、集落の人は魚とりをした。

3.11 ある被災地の記録

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