3月12日以降
3月12日の朝、浪江町役場に連絡をとろうとするも電話で連絡が取れずにいた。情報はテレビのみ。
町、平場全体の地震と津波被害の影響で学校の体育館、施設等は避難所となり、避難者であふれ一晩中大混乱であった。そして翌朝を迎えた。

町は災害対策本部を浪江町庁舎内に立ち上げ、その対策に当たっていた。災害の状況や避難状況などの正確な情報が把握できずにいた中で、原発が危ない、という噂が流れて、さらに危機的な状況に陥っていたのである。

 ◆4 原発避難が始まる
 町は津島支所災害対策本部を移す。津島は原発から20km以上離れていた。
 津島支所の災害対策本部で地元の議員として災害対策に奔走した。
3月11日の夜には、原発3km以内の住民に国からの退避指示が出されたと一報が入る。浪江町には正式な退避の指示がなかったが、町独自の判断で全町民の退避が始まった。町民は12日の午前から津島を目指した。

避難指示が国から出された。原発から20km圏内がいよいよ警戒区域とされた。
 一斉に避難のために国道114号線に自家用車が集中し、第状態を起こして完全に麻痺状態となった。
 午後3時36分、第一原発が水素爆発を起こす。テレビで原発建屋が爆発する瞬間を放送していた。
 放射能の拡散は、事実上、津島の西北方面の津島地区に達していた。後にSPEEDIがありながら情報が出されていなかったことが問題になる。
 私は、この町の非常事態に地元議員として、さらに全町民を守る立場として全町避難の対応に12日朝から対応していた。

 避難の住民は、津島に集中した。浪江町民だけでなく、双葉郡内町民も南相馬市小高区の住民も避難して来た。地元地域の婦人会はじめ、各部落では、食糧の確保た炊き出し等に追われた。

3月12~13日
 食糧不足は深刻だった。さらに必要な生活物資が入らない。津島には川俣方面からの交通ルートが遮断されていた。浪江町は警戒地区とされたため、全国からの支援物資が入ってこなかったのだ。もちろんガソリンも入ってこなかった。
 避難住民は物資の確保が出来ずに危機的状況にいた。
 炊き出しのガスが、津島支所や活性化センターでも尽きてしまった。ちょうど私の自宅にガスボンベ20kgと10kgが20本あったので、これをすぐに提供した。
 そしてトイレの不足である。消防団が穴を掘って簡易トイレを作ってくれたが、なお不足した。私はさっそく業者に簡易トイレを手配したが、山木屋地区までしか届けられないと言われた。それで山木屋まで物資を取りに行く。
津島は原発から30km離れているにもかかわらず、すべての輸送ルートから遮断されて八方ふさがりであった。

3月14日
 ◆津島支所で災害対策会議
 町長はじめ幹部職員、津島区長、消防団等が集まり、随時打ち合わせをした。
 原発が連続爆発して、今この津島苦事態も危ない、との情報が入ってきた。
私は、私的な情報では3月12日の早朝に、部落の住民が原発の危機的状況について知らせてくれた。
「津島も危ないので早く福島の方に避難したい。三瓶さんも一緒に避難しよう」と。
しかし「私は立場上、皆をここに置いて逃げることが出来ない」と返事した。
 放射能が津島に降り注ぎ、拡散した事実は国や県から連絡もなく、実態として5日間も無用な被曝を受けていたのである。
 案の定、避難を誘って知らせてくれた知人女性の言った通りの状況が真相であったことを、後ほど確認し強烈に心に残っている。

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