あの日あの時
3月11日午後1時30分から、浪江町役場議会で全員協議会を庁舎5階の会議室で開催中でした。
議員定数20名のうちから、定数削減の協議会を議論していたのです。その最中に、午後2時46分に大地震が発生しました。今までに経験したことのないほどの大激震でした。
これは大変なことになるぞ、と直感した。みな大騒ぎでした。
即時、議会は解散されて、全員が自宅やそれぞれの地域に戻りました。
地震発生直後
地震発生の時に会議中でしたが、直ちに廊下に出て階段を下りようとしましたが、しかしあまりの揺れに会談の手すりにつかまっていても、その地震の揺れが長く、10分ほども続いた。
地震はマグニチュード9。町内は震度6~7と思われた。
私の自宅は山間部なので、津波は気にしていなかったが、その後に大津波となって請戸港をはじめとして沿岸部そして国道6号線にまじかに津波が押し寄せてきたと知り驚いた。
この津波は多くの人命を奪って、さらに甚大な被害を全町にもたらした。
平成5年に完成した浪江町庁舎は近代的な建物でしたが内部に被害が出ました。津波被害はさいわいにものがれました。
庁舎を出て
余震が何度も続くなかを、私は即座に津島地区と家族の安否を思い、私有車を運転して帰宅途中に町内上ノ原の実姉の上で、姉の無事と安否確認しました。
地震で戸棚が倒れ、めちゃくちゃな家財などの産卵した家の中で、姉はひとりで身動きもできずにおりましたが、さいわいにけがもなく、ほっと安堵いたしました。姉は80歳を迎えます。
姉の家の安全を確認してから、「夕方には迎えに来るから」と姉に伝えて、私の自宅に向かいました。
自宅に戻ると、津島地区は町中心部から約25kmにあって、幸いにも地盤が固いといわれていたとおりに家屋の倒壊はありませんでした。平場の町の中心部では、瓦が落ち、家ごと崩れ落ちた光景であったのを、あとで確認してから今回の地震被害の凄まじさを実感いたしました。
自宅の妻の安否を確認し、家の周りの倒壊や損壊状況を確認し、被害がなく安堵しました。
隣組の方々の安否を確認し、これもみな無事で安堵。
妻と二人で、今度は妻の車に乗って実姉を迎えに行きました。
また町の中心部に入って被害の状況を確認して歩きましたが、その甚大さは目を覆うばかり。駅前の大通りの大きな家屋や旧家は倒壊し、道路は寸断され、何とか車を走らせ、街中を一周しました。長男の自宅に寄ると、町内牛渡地区の家は倒壊しておらず無事。
もう一人の姉を探しているういうちに姉の長男が帰宅してきた。
次にさきに訪ねた実姉の家に向かうが、家の中にいたはずの姉がいない。
家の周りを30分ほど探した。裏の農業ハウスの中に余震を警戒して避難していたので無事。
姉を探すうちに、姉の長男が帰ってくる。この長男だけ残して姉を同乗させ、ようやく三人で津島に自宅に戻って来た。夜の9時を回っていた。
実姉の長男と連絡がつかずに心配したが、とりあえず長男の安否確認は出来ていたので安心した。この息子は南相馬の銀行に勤務。
町内全域が停電していた。しかし、さいわい津島地区の停電はなく、何とか生活できるようだった。