三瓶宝次インタビュー
2016年7月26日 飯坂にて
私のふるさとは浪江町下津島の地区。ここで生まれ、ここで育ち、ここで暮らして現在も同じです。私は4人兄弟の長男に生まれ、姉が二人、弟が一人おります。
私の家は旧家でしたが、零細農家で戦前戦後の暮らしは良くなかった。
津島からその当時は、高校に入学する人は数少なくて、双葉高校を受験して入学した時は汽車通で通学するのも何しろ自宅の津島から浪江駅までが遠いので、双葉町に嫁に行っていた叔母の家に下宿させてもらって勉強しました。そこは双葉町の清水寺という所。広いお堂ががらんとしていて、静かなお寺では深夜にネズミでも何かを齧っているのかと思うような物音がします。それは、お骨が骨壺の中で崩れる音なんですよ。
もうひとりの叔母が看護師をしていましたので、そんなこともあって、医者になろうかななどと考えたこともありました。
高校卒業後は家に戻って農協に努めました。家では煙草栽培、酪農などをやり、何とか暮らしを立てていた。30歳の時に両親を亡くしました。その当時、子供が4人もいたので、暮らしは容易でありませんでした。
当時の津島は戦後の開拓政策によって旧戸数が350戸程度でしたが、昭和21年から25、26年の間に民間林の一部を含めて国有林開放によって700戸位の入植開拓が始まりました。
出入りを含めて約400戸位になって、現在の戸数で一時期(昭和31年)の人口は4200人までになりました。
私は農協職員として12年間勤めた後に、一時サラリーマンとなり、三井の保険会社に勤務。10年後に家に帰り、平成5年に地区のみなさんからの負託を受けて町会議員選挙に立候補し、初当選以来6期目となり、現職を続けてふる里のために努力してまいりました。
津島村は昭和31年に昭和の大合併によって浪江町(1町3村)となりました。
合併により良くなるどころか、津島自体は過疎が進み、人口減少が止まりません。
中心地だけが発展進行してきましたが、私は地域の期待を受けて、地域の再生振興と住民の生活向上に力を注ぎ、一筋に生きてまいりました。
合併は中心地となるところは活性化しますが、全体がよくなるどころか周辺の地域は何でも後回しになり、津島地区も同様に住民がみな苦しみました。
町会議員の総数が30人の時に、津島からの選出議員は5人でした。津島地区の住民は、強い危機意識から立ちあがり、我々議員も一緒になって県営事業の地域整備事業の道路農地整備、地域活性化センター等の公共施設、学校、保育所整備等5年間に亘る事業を成し遂げました。
前向きに努力してまいりましたが、人口減少が進行し過疎の歯止めが効かない状態です。
津島地区は、村であった時代から現在まで、戦前からの住民と戦後の開拓入植者が共にみずからの力でづる里を守り発展させてきました。
さらに世代をつないで、我々の地域であるふる里を作り上げてきたのです。
311の地震津波と原発事故によって津島は最も大きな被害を被って、いま地域の存続さえ危惧される状況に置かれております。必死に生命財産と健康を守る戦いが始まりましたが、自然と人情にあふれたすばらしい「ふる里」を、何とかして守り、残していきたいものです。
あの日あの時
3月11日午後1時30分から、浪江町役場議会で全員協議会を庁舎5階の会議室で開催中でした。
議員定数20名のうちから、協議会で定数削減を議論していたのです。その最中に、午後2時46分に大地震が発生しました。今までに経験したことのないほどの大激震でした。
これは大変なことになるぞ、と直感した。みな大騒ぎでした。
即時、議会は解散されて、全員が自宅やそれぞれの地域に戻りました。
地震発生直後
地震発生の時に会議中でしたが、直ちに廊下に出て階段を下りようとしましたが、しかしあまりの揺れに会談の手すりにつかまっていても、その地震の揺れが長く、10分ほども続いた。地震はマグニチュード9.町内は震度6~7と思われました。
私の自宅は山間部なので、津波は気にしていなかったですが、その後に大津波となって請戸港をはじめとして沿岸部そして国道6号線にまじかに津波が押し寄せてきたと知り驚きました。この津波は多くの人命を奪って、さらに甚大な被害を全町にもたらした。
平成5年に完成した浪江町庁舎は近代的な建物でしたが内部に被害が出ました。津波被害はさいわいにものがれました。
庁舎を出て
余震が何度も続くなかを、私は即座に津島地区と家族の安否を思い、私有車を運転して帰宅途中に町内上ノ原の実姉の上で、姉の無事と安否確認しました。地震で戸棚が倒れ、めちゃくちゃな家財などの産卵した家の中で、姉はひとりで身動きもできずにおりましたが、さいわいにけがもなく、ほっと安堵いたしました。姉は80歳を迎えます。
姉の家の安全を確認してから、「夕方には迎えに来るから」と姉に伝えて、私の自宅に向かいました。
自宅に戻ると、津島地区は町中心部から約25kmにあって、幸いにも地盤が固いといわれていたとおりに家屋の倒壊はありませんでした。平場の町の中心部では、瓦が落ち、家ごと崩れ落ちた光景であったのを、あとで確認してから今回の地震被害の凄まじさを実感いたしました。
自宅の妻の安否を確認し、家の周りの倒壊や損壊状況を確認し、被害がなく安堵しました。隣組の方々の安否を確認し、これもみな無事で安堵しました。
妻と二人で、今度は妻の車に乗って実姉を迎えに行きました。
また町の中心部に入って被害の状況を確認して歩きましたが、その甚大さは目を覆うばかりでした。駅前の大通りの大きな家屋や旧家は倒壊し、道路は寸断され、何とか車を走らせ、街中を一周しました。長男の自宅に寄ると、町内牛渡地区の家は倒壊しておらず無事でした。もう一人の姉を探しているういちび姉の長男が帰宅してきた。
次にさきに訪ねた実姉の家に向かうが、家の中にいたはずの姉がいない。
家の周りを30分ほど探しました。裏の農業ハウスの中に余震を警戒して避難していたので無事でした。姉を探すうちに、姉の長男が帰ってくる。この長男だけ残して姉を同乗させ、ようやく三人で津島に自宅に戻って来た。夜の9時を回っていました。
実姉の長男と連絡がつかずに心配したが、とりあえず長男の安否確認は出来ていたので安心した。この息子は南相馬の銀行に勤務しております。
町内全域が停電していた。しかし、さいわい津島地区の停電はなく、何とか生活できるようだった。
3月12日以降
3月12日の朝、浪江町役場に連絡をとろうとするも電話で連絡が取れずにいた。情報はテレビのみでした。
町、平場全体の地震と津波被害の影響で学校の体育館、施設等は避難所となり、避難者であふれ一晩中大混乱であった。そして翌朝を迎えました。
町は災害対策本部を浪江町庁舎内に立ち上げ、その対策に当たっていた。災害の状況や避難状況などの正確な情報が把握できずにいた中で「原発が危ない」という噂が流れて、さらに危機的な状況に陥っていたのです。
原発避難が始まる
町は津島支所災害対策本部を移す。津島は原発から20km以上離れていた。津島支所の災害対策本部で地元の議員として災害対策に奔走しました。
3月11日の夜には、原発3km以内の住民に国からの退避指示が出されたと一報が入る。浪江町には正式な退避の指示がなかったが、町独自の判断で全町民の退避が始まった。町民は12日の午前から津島を目指しました。
避難指示が国から出された。原発から20km圏内がいよいよ警戒区域とされた。一斉に避難のために国道114号線に自家用車が集中し、大渋滞を起こして完全に麻痺状態となったんです。
午後3時36分、第一原発が水素爆発を起こした。テレビで原発建屋が爆発する瞬間を放送していた。放射能の拡散は、事実上津島の西北方面の津島地区に達していました。後にSPEEDIがありながら情報が出されていなかったことが問題になりました。
私は、この町の非常事態に地元議員として、さらに全町民を守る立場として全町避難の対応に12日朝から対応していました。
避難の住民は、津島に集中しました。浪江町民だけでなく、双葉郡内町民も南相馬市小高区の住民も避難して来た。地元地域の婦人会はじめ、各部落では食糧の確保と炊き出し等に追われました。
3月12~13日
食糧不足は深刻だった。さらに必要な生活物資が入らない。津島には川俣方面からの交通ルートが遮断されていました。
浪江町は警戒地区とされたため、全国からの支援物資が入ってこなかったのです。もちろんガソリンも入ってこなかった。
避難住民は物資の確保が出来ずに危機的状況にいました。
炊き出しのガスが、津島支所や活性化センターでも尽きてしまった。ちょうど私の自宅にガスボンベ20kgと10kgが20本あったので、これをすぐに提供しました。
問題はトイレの不足です。消防団が穴を掘って簡易トイレを作ってくれたが、なお不足しました。私はさっそく業者に簡易トイレを手配したが、山木屋地区までしか届けられないと言われました。それで山木屋まで物資を取りに行く。津島は原発から30km離れているにもかかわらず、すべての輸送ルートから遮断されて八方ふさがりでした。
3月14日 津島支所で災害対策会議
町長はじめ幹部職員、津島区長、消防団等が集まり、随時打ち合わせをしました。
原発が連続爆発して、今この津島地区の事態も危ない、との情報が入ってきました。私は私的な情報では3月12日の早朝に、部落の住民が原発の危機的状況について知らせてくれました。
「津島も危ないので早く福島の方に避難したい。三瓶さんも一緒に避難しよう」と。
しかし「私は立場上、皆をここに置いて逃げることが出来ない」と返事しました。
放射能が津島に降り注ぎ、拡散した事実は国や県から連絡もなく、実態として5日間も無用な被曝を受けていたのです。
案の定、避難を誘って知らせてくれた知人女性の言った通りの状況が真相であったことを後ほど確認し、強烈に心に残っています。