私のふるさとは浪江町下津島の地区。ここで生まれ、ここで育ち、ここで暮らして現在も同じです。
 私は4人兄弟の長男に生まれ、姉が二人、弟が一人おります。
 私の家は旧家でしたが、零細農家で戦前戦後の暮らしは良くなかった。
 津島からその当時は、高校に入学する人は数少なくて、双葉高校を受験して入学した時は汽車通で通学するのも何しろ自宅の津島から浪江駅までが遠いので、双葉町に嫁に行っていた叔母の家に下宿させてもらって勉強しました。
 高校卒業後は家に戻って農協に努めました。家では煙草栽培、酪農などをやり、何とか暮らしを立てていた。
 30歳の時に両親を亡くしました。その当時、子供が4人もいたので、暮らしは容易でありませんでした。
 当時の津島は戦後の開拓政策によって旧戸数が350戸程度でしたが、昭和21年から25、26年の間に民間林の一部を含めて国有林開放によって700戸位の入植開拓が始まりました。
 出入りを含めて約400戸位になって、現在の戸数で一時期(昭和31年)の人口は4200人までになりました。
 私は農協職員として12年間勤めた後に、一時サラリーマンとなり、保険会社に勤務。10年後に家に帰り、平成5年に地区のみなさんの負託を受けて町会議員選挙に立候補し、初当選以来6期目となり、現職を続けてふる里のために努力してまいりました。
 津島村は昭和31年に昭和の大合併によって浪江町(1町3村)となりました。
合併により良くなるどころか、津島自体は過疎が進み、人口減少が止まりません。
中心地だけが発展進行してきましたが、私は地域の期待を受けて、地域の再生振興と住民の生活向上に力を注ぎ、一筋に生きてまいりました。
 合併は中心地となるところは活性化しますが、全体がよくなるどころか周辺の地域は何でも後回しになり、津島地区も同様に住民がみな苦しみました。
町会議員の総数が30人の時に、津島からの選出議員は5人でした。
津島地区の住民は、強い危機意識から立ちあがり、我々議員も一緒になって県営事業の地域整備事業の道路野鵜地整備、地域活性化センター等の公共施設、学校、保育所整備等5年間に亘る事業を成し遂げました。
 前向きに努力してまいりましたが、人口減少が進行し過疎の歯止めが効かない状態です。
津島地区は、村であった時代から現在まで、戦前からの住民と戦後の開拓入植者が共にみずからの力でふる里を守り発展させてきました。
 さらに世代をつないで、我々の地域であるふる里を作り上げてきたのです。
 3.11の地震津波と原発事故によって津島は最も大きな被害を被って、いま地域の存続さえ危惧される状況に置かれております。必死に生命財産と健康を守る戦いが始まりましたが、自然と人情にあふれたすばらしい「ふる里」を、何とかして守り、残していきたいものです。

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