満州から生還 今は避難生活 飛田 実 2012年8月16日 福島民報みんなのひろば

 太平洋戦争が始まって間もない昭和17年、苦に歯食糧増産などのため満州開拓移民政策を進めた。私は6歳の時、一家8人で中国北東部の吉林省に渡った。関東軍を除隊した人々がリーダーで、農場では中国人を雇っていた。生活は不自由なく、豊かだった。
 20年8月15日、玉オン放送を集会所で聞いた。突然の敗戦の報に、全員がぼうぜん自失、泣き崩れた。終戦を境に立場が逆転し、暴徒化した中国人集団が日本人の集落を次々に襲い始めた。略奪殺人が続き、全滅する集落が相次いだ。
 私たちの集落は10台の馬車に分乗し、多く野日本人が住んでいた撫順市に向かった。命の保障が全くない長い道中で、着いた時には小雪が舞っていた。21年6月に故蘆島市の港から引き揚げ船に乗船でき、舞鶴港に上陸した。
 戦後の日本はすべてが不足していた。父は食糧を得るため浪江町津島の開拓に励み、この世を去った。そして私たちは昨年3月11日、国策で設けられた東京電力福島第一原発の事故で全てを失い、避難生活を続けている。願いは脱原発、脱核兵器。将来の日本、子孫のため、心から平和を願う。 水戸市 飛田実(77)
3.11 ある被災地の記録

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