屋中茂夫 浪江町職員

14時46分 大地震発生
 私は双葉郡浪江町役場職員でしたが、東日本大震災の地震の時、浪江町役場庁舎3階の教育委員会事務局で仕事をしていました。
 自身は14時46分、浪江町も震度6強を観測。揺れは3分以上続いてだんだん強く成り、事務室のロッカーは次々に倒れた。私は思わず「ロッカーから離れろ!」と叫びました。机の下に身を寄せる職員、廊下に出る職員、庁舎内は第パニックです。外を見ると、民家の屋根瓦やお寺の屋根瓦が落ちるのが分かりました。
 揺れが収まるのを待って直ちに、馬場有町長を本部長とする「浪江町災害対策本部」を設置し、被害の状況把握に努めました。私は小中学校の状況把握を職員に指示しました。各消防団からは、次々に被害状況が入ってきました。庁舎4階から海岸方面を見ると、浪江町東中学校の近くまで波が押し寄せているのが確認されました。

請戸小学校の児童は全員無事に避難
 浪江町立の5小学校中、特に注目したいのは、海岸から約150mの位置にある町立請戸(うけど)小学校のことです。児童83名は全員学校に残っていましたが、校長の素早い適切な判断で、西方約1kmの「大平山」という小高い丘に避難。その後国道6号線に向かい山道を通り抜け、通りかかった大型トラックの二第二の背ていただいて、夕方に役場庁舎となりのサンシャイン浪江に全員無事避難できました。
 サンシャイン浪江には約3000人が避難し、職員は避難者の名簿作成や炊き出しを行いました。

原発事故の状況も避難についても政府から浪江町への連絡は一切なし
16時46分 東京電力福島第一原子力発電所で、電源喪失の旨、東電から政府へ通報(ラジオで確認)……浪江町への連絡は一切ありません。
21時23分 政府は東電第一原発から半径3km圏内の住民に避難指示を出し、その後、10km圏内の住民に屋内退避指示を出しました。……浪江町への連絡は一切ありません。

高い放射能の阿武隈山地の津島地区に8000人の浪江町民が避難し被曝
 3月12日(土)SPPEDIの発表もなく
5時44分 政府は半径10km圏内の住民に避難指示を出しました。……浪江町への連絡は一切ありません。浪江町はラジオ放送を聞いて、独自に10km圏外の町立刈野長学校や大堀小学校はじめ効率市瀬鵜への避難誘導及び避難を開始しました。
13時00分 浪江町は半径20km圏外の津島地区への避難勧告、避難を開始し、同時に災害対策本部を、本庁から西へ32kmの「浪江町役場津島支所」へ移動しました。町民の避難の交通手段は、町のマイクロバス、マイカー、民間の大型バスボランテイアで約4~5台。津島までは不通なら車で約35分程度ですが、この日は大渋滞で、約5時間かかりました。津島地区の避難所になったのは、小中学校、高校、集会所などで、約8000人が避難しました。私はつしま活性化センター勤務となり、会議のために対策本部の津島支所とセンターとの約1kmを、毎日3回徒歩で往復しました。後で分かったことですが、そのころ津島地区は大へん高い放射能に被われていたのです。

3月14日(月)11時01分 3号機で水素爆発

政府からなんの情報もなく 高い放射能の中で遊んでいた子どもたち
 3月12日から15日まで、つしま活性化センターに避難した約1000人の町民の様子ですが、炊き出しの配給時は外に並んで食料をいただき、外で食べる人もいました。14日は小雪の舞う日でしたが、子どもたちは外で遊んでいました。(後日わかったことですが、実は津島地区は高線量の放射能に被われていたのです。)センターのトイレは処理容量がオーバーしたため、消防団員が外に手掘り仮設トイレを設置しました。
  私は3月28日まで津島支所に勤務し、他の職員4名
、常駐していた約30名自衛隊員と一緒に未避難者の対応や救出にあたりました。職員は町内の地理が分かっているということで、自衛隊員に同行しました。私自身はこの間、浪江町内に7回出向きました。
 
3月15日(火) 4時30分 浪江町独自の判断で、二本松市と避難先の受け入れについて協議開始。
6時10分 東電第一原発2号機で爆発音が発生。
10時00分 浪江町長は、町全域に避難指示命令を出し、二本松市への避難を決定しました。
11時00分 政府は、半径20km 30km圏内の住民に屋内避難指示を出しました。……浪江町への連絡は一切ありません。同日浪江町は二本松市東和地区の旧校舎や体育館等に避難所を開設。災害対策本部を「二本松市東和支所内」に移動しました。
3月28日(月)
 私は、二本松市役所東和支所に移動し、「教育支援班」を命じられました。主たる業務は、避難児童1097名、生徒608名の安否確認と名簿の作成、新学期の準備、避難先での就学の対応でした。
4月1日(金)
 浪江小・中学校の全教員は、二本松市東和町の旧校舎・木幡題二小学校を借用し勤務することになりました。教育支援班にも5菜の教員が配置され、学校再開等の準備にあたりました。
 浪江町の小中学生の震災調査の結果、中学生2名が津波の犠牲になり、両親を亡くした孤児が3名、片親を亡くした遺児が8名と分かりました。

9条はらまち257号2014年2月7日

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