町民被ばく どれほど 不安、悔恨、憤り…
浪江町の津島避難
浪江町の避難は三日午前十一分、東京電力福島第一原発3号機の爆発で急展開する。津島地区に滞在していた住民には不安が渦巻いていた。
苦情相次ぐ
浪江町は三月十四日午後から断続的に対策本部会議を開き、再避難するかどうかをを協議した。「一刻も早く避難すべきだ」。周辺の放射線量の情報は全くなかった。それでも避難の必要性を訴える意見が相次ぎ、移転先は二本松市に決まった。
十五日朝、馬場有町長が二本松市に受け入れを要請した。同日午前十時、町は津島地区の区長を集め、住民らに避難を呼びかけるよう求めた。
町の移転とともに、住民の避難がせきを切ったように始まった。町のバスで二本松市に向かう避難者もいれば、会津地方や圏外に車を走らせる町民もいた。ただ、家畜の世話などを理由にとどまる住民がおり、町は支所に職員数人を残し、避難の説得に当たった。
津島地区は十六日の測定で毎時五八・五マイクロシーベルトの放射線量が計測され、二十二日に計画的避難地区に設定された。局地的に放射線量が高い場所も見つかった。七月二十六日時点で、赤宇木は最大枚に二六・三マイクロシーベルト、南津島は同四〇・一マイクロシーベルト。避難の目安となる年間積算量「二〇ミリシーベルト」を短期間に上回る線量が計測された。
津島地区で過ごした住民は再避難後も被ばくの恐怖におびえる。
「なぜ危ない津島地区に避難したんだ」。町には春から夏ごろにかけ、このような苦情が多数寄せられた。
子どもの将来は
「子どもの将来は大丈夫なのか」。県北地方の仮設住宅で暮らす四十代女性は不安に駆られる。八月に茨城県東海村で受けた内部被ばく検査で、高校生の子どもから微量の放射性物質が検出された。
女性の家族は町の避難指示に従って三月十二~十五日まで津島地区の避難所で過ごした。水はミネラルウオーターを飲んだが、野菜などの食材は沢の水で洗っていた。
検査の担当者から「体に影響はない」と説明されたが、結果を知った子どもは食事をとらずにふさぎ込んだ。子どもを励ます言葉は見つからなかった。何を根拠に津島にとどまらせたのか。線量が計測できていれば、安全か、危険かの判断はついていたはずだ」
自身を責める母親もいる。津島地区に一家四人で避難した女性(40)は「一生、子どもに謝り続けなければならない」と表情をこわばらせる。夫(41)、中学二年の長女(13)、次女(3つ)の四人で十五日まで津島地区の親戚宅で滞在した。
退屈する次女を外で遊ばせていた。次女は内部被曝検査の対象年齢に達していないため、検査を受けることはできない。「ごめんなさい。遊んだあの場所の線量が高かったかもしれないの」
注 内部被ばく検査 警戒区域と緊急時避難準備区域、計画的避難区域、特定避難勧奨地点の住民のうち4歳以上を対象に6月から始まった。3歳以下の乳幼児は、行動を共にしていた保護者が対象。10月31日現在、6608人が検査を受け、浪江町では2618人が受けた。また、甲状腺検査は10月から始まり、3月11日時点で18歳以下だった全県民を対象にしている。
民報2011年12月11日 3・11大震災検証