27 苦しい中にも喜びあり 高橋忠正
乳牛を四十四年に仔牛で買入たのが始まりで現在は三〇匹位になりました。ここまでの間にはなん匹も死なせたり病気にしたり苦闘の連続でした。
五十七年に牛の品評会で金賞をもらいました。家族や畜友と悦びあいました。その後も度々いろいろな賞状をもらい苦しい中にも悦びあり家族皆でほっとしました。乳牛も自由化の中に立たされ前途ははなはだ厳しいものがあります。
28 子供に励まされ生きる 高橋サイ
ソリの下になって九死に一生を得ました。県立医大病院に一年六か月の長い闘病生活に幼い子供らとともに苦しい苦しい生活をつづけました。死にたくなった時もあります。子供達にはげまされて今日まで参りました。
29 両親の苦労あってこそ 永橋謙義
戦後まもない昭和二十一年一月この地に入植し開墾を始めたそうです。
その頃まだ自分は生れていませんでしたから入植当時のことは知りません。生まれて物心がついた頃両親から聞かされた話によると苦労の連続だったそうです。ろくに食べる物もなく大変な時期だったとか、いろんなことがあったそうです。
そして四十五歳で入植し苦労して開墾して昭和四十五年六十九歳でこの世を去りました。
その後、二代目の自分は昭和四十七年肉牛飼育を始めて現在にいたっています。
30 一鍬一鍬で原野を拓く 長峰キヌヰ
月日のたつのは早いもの入植五十年になりました。入植した当時は石油ランプで針仕事など思う様には出来ずに子供達を育てるのに苦労しました。自分の手で一クワ一クワ原野を開拓しました。作物は思うように穫れなく食事にも事欠く毎日でした。
三十五年の五月に電燈がつきラジオなども買入て家の中がいっぺんに明るくなって、子供達が跳びあがって喜んだ事などは昨日のように想い出されます。
31 思い出は走馬灯のよう 山田ミノイ
過ぎし日を語りあう友人ゆきて
老いの身なほも老いてゆきけり
三瓶富蔵さんが(四月十日)亡くなった時に詠んだ短歌である。ぁ委託同志の血のにじむ思いがほとばしったう田である。また木の橋がコンクリート橋になった日はうれしくて涙が出てしかたがなかったと言った父は八十七歳で昭和五十一年十二月二十七日亡くなりました。それが私の父の思い出であり開拓五十年の中でいろいろあったが今も機能の様に思われます。
32 牛とともに頑張り抜く 門馬ハルイ
室原から昭和二十三年ごろ私は嫁いで沢先今の門馬家に来ました。そのころは仕事は山仕事が多く一番つらかった事、冬山の雪はきで疲れ食べる物がなかったので山仕事もすぐ体力がなくなり泣いたこともあります。
夜の隅出し背にしょって家族で頑張りました。あまり良くない炭を出し営林署から炭を買ってもらえなくなった事もあります。それからは開拓組合から和牛にかえて四十年、今でも酪農を続け牛と共に頑張り生きて来ました。当日は牧草などはなく、営林署の山から山草を集め牛をそだてて乳をしぼりました。今ふりかえってみると、年を取った事ばかりで苦労ばかりして来た思いです。今は、孫の成長が楽しみでもあり将来の事を考えると心配もあります。