24 葉たばこ作り続け30年 三瓶トシエ
私は昭和三十七年に嫁に来て三人の子供を育てて、たばこと米作りに働いてまいりました。台風や長雨で米もたばこも取れずひどい年もあったけど、たばこ作り産十年あまりやってきましたが、平成六年は一番よかったと思います。
25 開拓魂を忘れずに敢闘 高橋清重
私は二十三年秋シベリアから復員して親戚をたよって今の所に飯盒一つで二十四年に入植した。朝早くから夜おそくまで開墾した。
ある時は雷雨の中で開墾していると近くに雷が落ちて四、五メートルも飛ばされた事がある。
また小屋が雪でつぶされてあやうく医の地が助かった。冬は雪が一メートル近くもつもる。二キロ位の奥山の古い炭がまの中で三瓶明雄君と営林署の炭の賃焼きして十五キログラム入りザク炭で二五円位だったと思う。
一〇日に一回ぐらい近く野家でお風呂をもらった。真っ黒な体で洗い流した。今になって考えると大変迷惑なことと思います。
ある時はくらい夜、一〇時頃一人で炭ガマに帰る時高い桟橋の中ごろで頭の真上で突然にギャーと大きな声でバントリ(むささび)に鳴かれて危なく桟橋から落ちそうになりました。
その様にして春から秋までの開拓資金を造りました。開拓すると一反あたり二五〇〇円位の開拓補助金があったので本当に助かりました。
三十四年三十五年組合長になり電灯導入資金作りに三瓶明雄君、坂下君の外十名位で毎月一〇〇円位の預金を始めたので津島地方ではいち早く三十五年に電灯がついた。
三十六年に沢先共同養鶏を七名で始めたが、三十九年春から四十年八月まで鶏卵の手取り七〇~八〇円位で飼料はトン当たり七万円位で数百万円位赤地になり、ついに解散した。
同志の皆さんに御迷惑をかけたのが残念であり、少しでも報いたいと考えています。畜産界の自由化により養鶏も前途は厳しいが開拓魂を忘れずに敢闘して行かねばならない。
26 新しい時代の流れ開拓 高橋和重
五十年前、この地に父一人で入植し現在は家族が八人に増え生活しております。私が生まれた昭和三十四年の時に歯まだまだ大変。厳しい時期だったと思います。着る服は兄、姉のを譲り受け私のところに来る頃は襟や袖口などは大きく広がり色も変色しておりました。新しい服を買ってもらうとうれしくて何回も何回も着ていたことを思い出されます。
今私は、養鶏を父のもとで始めて十五年を経過しようとしています。卵の価格は私が始めた時も、五十年前の頃も現在も変わりません。物価の優等生として消費者に喜ばれております。
今後、国際社会の中での農業、畜産分野でのウルグアイ・ウンド合意に基づき関税の引き下げ、円高と我々の養鶏も厳しい道になってきたと痛感しています。でも、日本では食糧は余裕がありますが世界を見ると日本のように食糧に余裕がある国は少なく毎年餓死者の出て居る国が数多くあります。
食糧という意義を考えれば、これからの厳しい養鶏に対応した計画、行動をして新しい時代の養鶏にして行きたい。
私は父が何もないこの地から開拓した事を思えば私も新しい時代の流れの養鶏を開拓していけば、道は開けると考えてこれからもこの地で生きて行きたいと思っております。