津島開拓保健婦として 渡辺カツヨ 元福島県津島開拓駐在保健婦
 津島開拓保健婦として勤務したのは昭和二十六年からで、満十八年でしょうか。開拓地に足を一歩踏み入れた第一印象はただに百年も昔の時代に引き戻された様な気持ちがしたものでした。
 また、残雪の畑にはポツンポツンと木の根があり、畑の隅に小さな笹小屋が建てられ丸太を並べた上に荒筵を敷き、炉には太い薪が燻って誰の顔も手足も煤けて、ドラム缶の風呂も便所も露天が多く、囲いのあるのは良い方でした。
 配給米を五升や三升づつ背負って五、六キロの山道を一日がかりで往復する人達を見るたびにこの人達はいつになったら人並みの生活ができる様になれるのかと思った。薬はなく、みすみす死なせた話は珍しくありませんでした。
 夜中に起されて出てみると、汚れた破れ国民服を着け、鬚ぼうぼうの男の人が立っている。
 「子供が肺炎で死にそうです。お願いします」
 という。初めて逢う顔である。
 カバンを掛けて迎えに来た人と出かける。提灯の後について山道を黙々と行く。二時間も歩いた頃ようやく一軒の小屋に着いた。呼吸困難症状の患者を炉端で母ちゃんが抱えている。
 「どうして寝かせないのか」と言っても、寝かせようともしない。
 抱きとって寝かせてあげようと床に行ってみるお木の葉を敷き詰めたその上にぼろ布を敷き布団がないのである。
 温湿布をと思うと手ぬぐいもない。自分の手ぬぐいを使って温湿布をし、二日後快方にむかい一命をとり止めた。
 またある夜、四歳の子を負って入って来て「助けてください」と言う人が来た。布団を敷いて寝かせると意識不明で半身は冷えている。
 さっそく湯たんぽを足の方に入れ、強心剤をやってみたが、全然反応がない。浣腸をかけると悪臭の血便が出た。腹部も温法し見守っていると水を要求した。水に薬を入れてやると一息に飲み干した。
 「助かった」と思うと涙が止まらなかった。
 「臨月の妻が心配して待ってますから」と患者を背負って帰って行ったひがし東の空が白みかけていた。

沢先開拓誌1

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