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開拓記念碑文
 昭和二十年戦は終わった。緊急開拓の発足と共に私達は此処天王山の一画沢先地内に入植する爾来三十年有余年夢の様に過ぎた。
 笹小屋に住み大石を転じ木の根っこと取組み昼夜の別無し一鍬一鍬と開墾を続ける。然し収穫は少なく幾度か挫折に迷ふ昭和二十七年土地の売渡しを受けて自分の土地となるされど苦難は続く。同志相励まし相扶け情熱を燃やしてひたすら開拓の道に進む。
 昭和二十四年待ちに待ったる電気が導入され各戸に電燈がともる。やがて荒地は耕され草地は拓け農用地六十余町歩に及ぶ、大型畜舎鶏舎が点在し乳を搾り仔牛は生れ鶏卵は大量に生産され、ここに永住の地を築く、嗚呼たれか入植当時今日を想像したであらう
 この姿を見ることなく他界された同志各位の冥福を祈り不撓不屈の拓魂を子々孫々に伝うて豊かな郷土の発展を祈念し今改めて三十有余年の苦闘を祈念するため茲に開拓記念碑建立する。
 昭和五十五年十月十一日
 沢先開拓記念碑建設委員撰
 福島県会議員 笠原太吉

1 津島開拓保健婦として 渡辺カツヨ 元福島県津島開拓駐在保健婦

 津島開拓保健婦として勤務したのは昭和二十六年からで、満十八年でしょうか。開拓地に足を一歩踏み入れた第一印象はただに百年も昔の時代に引き戻された様な気持ちがしたものでした。
 また、残雪の畑にはポツンポツンと木の根があり、畑の隅に小さな笹小屋が建てられ丸太を並べた上に荒筵を敷き、炉には太い薪が燻って誰の顔も手足も煤けて、ドラム缶の風呂も便所も露天が多く、囲いのあるのは良い方でした。
 配給米を五升や三升づつ背負って五、六キロの山道を一日がかりで往復する人達を見るたびにこの人達はいつになったら人並みの生活ができる様になれるのかと思った。薬はなく、みすみす死なせた話は珍しくありませんでした。
 夜中に起されて出てみると、汚れた破れ国民服を着け、鬚ぼうぼうの男の人が立っている。
 「子供が肺炎で死にそうです。お願いします」
 という。初めて逢う顔である。
 カバンを掛けて迎えに来た人と出かける。提灯の後について山道を黙々と行く。二時間も歩いた頃ようやく一軒の小屋に着いた。呼吸困難症状の患者を炉端で母ちゃんが抱えている。
 「どうして寝かせないのか」と言っても、寝かせようともしない。
 抱きとって寝かせてあげようと床に行ってみると木の葉を敷き詰めたその上にぼろ布を敷き布団がないのである。
 温湿布をと思うと手ぬぐいもない。自分の手ぬぐいを使って温湿布をし、二日後快方にむかい一命をとり止めた。
 またある夜、四歳の子を負って入って来て「助けてください」と言う人が来た。布団を敷いて寝かせると意識不明で半身は冷えている。
 さっそく湯たんぽを足の方に入れ、強心剤をやってみたが、全然反応がない。浣腸をかけると悪臭の血便が出た。腹部も温法し見守っていると水を要求した。水に薬を入れてやると一息に飲み干した。
 「助かった」と思うと涙が止まらなかった。
 「臨月の妻が心配して待ってますから」と患者を背負って帰って行った東の空が白みかけていた。

2 萱を掻き集めて家建てる  五十嵐馬治

 私は、昭和二十年終戦まで軍事工場宇都宮飛行場に勤めておりました。
 終戦と同時に、さっそく食糧難を解消しようと思い付、亡き母の生まれ故郷津島を思いつきまして開墾しようと思い小塚の亡き叔父由太郎殿を頼りに参りまして、現在の土地を世話してもらいました。
 さっそく叔父に連れられまして現在の沢先へ来て見ました。九月中旬ころだったと思います。土地周囲は茸が一面で、今思えばシメジでした。
 最初に自分をはじめ弟二人を相手に開墾を始めました。とにかく昔は営林署の松の木の育てる苗圃地だったらしく、一面に松林でした。
 何と申しましても一面の林で、第一番に伐採しなければどうにもなりません。切り倒しては今度集めて一山ひとやまにしては火を付けて燃やすのが先決でした。
 その間、多少は請戸方面から注文で製塩燃料に塩薪に出したと思います。
 いよいよ開墾が始まりますが、とにかくその前にどんな家でも住む所を建てねばなりません。松の木は幾らでもあるので自由でした。
 第一番に掘っ立て小屋を作り始める。しかしその萱も当時は木炭用に使うので、なかなか手に入らず、でも何とか叔父たちの世話で見つけてもらい、今度は集めるのに馬車を連れてきておりました関係上、何とか集めることが出来たのです。
 萱葺き小屋なぞ建てたこともないが、近くの叔父たちの指導で何とか住まれる様になり、明日からはいよいよ鍬を振るって開墾開始しました。
 松の木の根は長く、奥深く張っていたので困難でした。当時ろくな食物も取らずしてよくやったとつくづく考えられます。
 お陰様で現在の様な姿に立ちあがることが出来ましたのも、部落ご一同様のご協力の賜物と心より感謝しております。

3 沢先で二人老後楽しく 五十嵐春治
 今の所に二十二年十二月入植し、二十四年十二月結婚した。
 開拓に精を出し、四十二年にトマト作りして加工トマト振興大会で賞状をもらいました。
 四十六年に水田を作り、ひとまずほっとしましたが、家内が体が弱くなり苦労しました。
 だが環境の良い所ですので二人老後を楽しく生活したいと思います。

4 風化する思い出は残念  五十嵐ユキ
 私は津島に来たのは何でも昭和二十七年頃だったと思います。夫と昭和十八年に宇都宮で一緒になり現在の長男一晃が生まれ、ほとんど夫が迎えに来るまで実家の宇都宮で暮らしておりました。
 昭和二十六年頃だったと思います。夫が迎えに来たので現在地に来た様なわけです。ほとんど開墾は成功してありました。でも食糧難の最中でろくなものも食べず、朝早くから夜遅くまで畑仕事をしました。
 義母が昭和三十五年に亡くなり、三年後三男俊郎がまた亡くなり、悲しい不幸が続きました。
 三十八年頃から夫は北海道の方へ出稼ぎ七年間も行かれまして、子供は学生三人と通学、何かにつけて大変でした。
 とにかく食糧難の時期でしたかご飯の中にはほとんど雑炊を混ぜまして食べなければならない時が多々ございました。
 でも今になってみると当時の事なぞお互い忘れ始めているのではないでしょうか。

5 食事はイモで補う  五十嵐ヤイ

 主人は二十年に入植し、私は二十四年に嫁に来ました。朝早くから夕方遅くまで開墾しました。
 食事は思う様に食べられず、じゃがもなどで不足をおぎなった。子供は女の子五人育て、皆な嫁になりました。
 主人は若い頃は木馬引などして現金を取ってもらいました。十年前から体をこわして時々入院をしていますが、子供たちに時々来て見てもらっています。

6 電話や電気が通り感激  五十嵐一晃
 
 今の沢先の思い出を振り返ってみると四十二年くらい前に小学校に入り、冬の雪の多さが今でも思い出されます。
 また先輩たちにお世話になり学校に通ったものでした。うれしい思いでの中には。電話や電気が導入されることが伝えられた昭和三十一年ごろです。
 電気がともる日をトンと鵜に心から待っていたものです。
 ごはんと言われても毎日じゃがいもが主食でした。今では考えられません。でも今の父母以上の人はまだ大変だった事でしょう。亡くなった祖母、ばあちゃんには食べられる草等を説明して教えてもらったものです。
 小学校一、二学年になると、焚き木取り、家畜の世話、風呂の水汲み、台所のおまかない。父母が忙しいと学校を休んで兄弟の世話をさせられました。特に田植えの初夏の節は。
 でもそれが今の暮らしにつながり、兄弟や先輩たちと頑張れた根源かもしれません。車なども昭和四十年後半から見られたような気がします。
 思い出はまだまだありますが交通の不便さがありました。自分の弟の病気の手遅れや地区の中で先輩たちが今のような便利な生活を経験せずに去ってゆきました。
 淋しくて何とも言えない時代もありましたが、これからはこの五十周年を機会に先祖に笑われないように頑張って行こうと思います。
 今の家族と共に、そして沢先はもちろん津島の皆さんと素敵な子孫と自然のために。

7 息子の急病に祈る思い 石井トメノ

 私は昭和二十八年にここに嫁いできました、良く幼子を見ながら一生懸命働きました。ある日息子の信夫が急に腹が痛み出し床に寝ていましたが、私は仕事をしなければならず心配しながら外で仕事をしておりました。
 息子は時は経つにつれ痛みがひどくなるばかりでした。あの当時は津島には医者がおらず、車を持っている人はおりませんし、まして救急車もありません。
 私はとなりの五十嵐今朝治さんに頼み浪江の病院まで連れて行って貰うことにしました。
 おんぶをしてもらい、阿掛のバス停まで歩きそれからバスで二時間かかったと思います。その間息子の症状が悪くなるばかりで心配で心配でしかたありませんでした。
 渡部病院に行き、お医者様に腸捻転と言われすぐに手術をしないと危険だと言われ、祈る気持ちでお医者様にたのみました。
 無事、手術が成功に終わり一命をとりとめました。四か月後に退院することが出来ましたことが思い出されます。
 そのむすこも今は三人の子供に恵まれ私はその孫を見ながら今日も楽しく生きています。

8 家族の苦労着実に実る  大内秋二郎

 私は渡辺満さんの入植した後に三十三年に入植しました。
 三十四年より葉たばこ作りをしました。土地が不良で思う様にできなかったが一生懸命に努力したので一年一年良い葉たばこが出来る様になりました。その間家庭で開墾して畑を増やしました。
 三十五年に電灯が導入されてそれまで石油ランプ生活から解放されて子供らとともに歓びました。
 今は家内と二人で年金くらしで夢の様に時間がすぎさります。

9 我々が頑張って発展を  菅野一利

 沢先地区も開拓を始めて早くも五十年が経たちます。私もこの土地に生まれ四十年になろうとしています。
 開拓始まりの頃は話を聞いた位で現実的なことはわかりませんが、子供のころ、まだ家の周りには大木があり道路もぬかるみで木を横に引いて歩いた気がします。
 今では道路も拡張され舗装になり条件的にも大変めぐまれた所だと思います。
 昭和から平成に代わった現在でも、昼夜となく働いて開墾して来た土地です。これからますます発展させてゆく上でも我々が頑張って行かなければならないと思います。

10 苦労の峠ようやく越す  菅野留蔵

 田村郡常葉堀田渋内四番地にて昭和二年十月八日、父宗作母カツの四男に生まれる。女三人男四人の子供を残して父は四十二歳の若さで死んだ。
 母も四十二歳。それから母上も苦労、言葉や筆にあらわせぬ苦労続きで明日の食にも困る毎日でしたので私は十二歳の時小学四年で子守りに行った。
 一年五円、今の子供等はとても信じられないだろう。その母も昭和十四年五十二歳の若さでこの世を去った。俺が小学六年の時だった。
 学校へほとんど行かず家事の手伝いが毎日の仕事で苦労ばかりして来たおれだが、昭和二十一年十一月三日現在地に入植。食糧不足の時代、毎日夜昼なく働いてやっと現在の姿に成った。
 開拓組合より借入れ金返済のため出稼ぎで資金を造り、今は返済も終わり衣食住も安定したので苦労の峠は越えたつもりだ。その間家族にも大変な苦労をかけた。
 昭和二十七年妻と一緒になり、男三人女二人の子供もみな自立してほっとしたと思って自分を振り返ってみたら、早六十八歳に成った。
 酪農始めて三十年が過ぎた。今は若い人達にまかせて妻と二人で東北土木につとめて十年が過ぎた。
 その間会社旅行で日本一周したのが一番思い出に残る。
 これからも時代の波に乗り遅れない様に頑張って余生を楽しみたいと思って居る。

11 苦労や失敗数えきれず  熊坂信一

 今は亡き両親に一言。入植してから今日までの苦労や失敗等いろいろありました。うちの親父の入植は昭和二十一年と聞いております。親父は八百屋の次男でしかも兵隊帰りで農業の事など何一つ知らない人なので相手は地元の人とおやじのじいさまの計らいで始まりました。
 たばこや山仕事をやり、また養鶏をやっても思う様に行かず、生活も苦しくなる一方で出稼ぎに出る様になり、長くつづく間におふくろが昭和五十七年に五十九歳で亡くなり、また親父も昨年七十五歳で亡くなりました。苦労ばかりの一生だったと思うばかりです。

12 話しきれぬ50年の苦労  小林正

 昭和二十年八月終戦となり、国の政策による緊急開拓事業に伴い、天王山国有林68林班に入林し食糧増産に励みましたが、昭和二十年は冷害にみまわれ作物は穫れず食うや食わずの生活となってしまいました。
 笹の小屋に住むこと何年か、考えることさえ嫌になっていた。冬がやって来ることを知っていながらどうすることも出来なかった。
 とうとう冬がやって来たが保存食は少なく雪が降っても雪を掃く物さえなかった。
 この苦しみは今となっては思い出となったが、その当時はただ茫然とするばかりでありました。
 家族に食事を与えるため雪を掘って野菜を取るなど雪がこんなに降ることさえ知らなかった私共であった。
 年が明けて春がやって来ると木の芽や山菜と食べるものがだんだん多くなって来るが、働かなければ食べてゆけず朝は朝星を仰ぎ、夜は月の光で一鍬一鍬開畑に力を入れ、食事は粥を啜りながら日中は伐採をして薪を作り木炭を焼いて資金をつくり、生活費や学資に充て、薪と塩とを交換するなどして生活をしていた。
 あの時の苦労は話しても話しきれません。
 家族が病気になっても薬もなければ電話もなく、薬草で何とか持ちこたえる毎日であった。
 この苦労は私共だけで結構です。決して子供や孫には苦労をさせたくありません。
 当地に入植した先輩の方々や同僚が幾多の苦労を凌ぎながら他界してゆく姿を見るとき、自分の身上を考えざるを得なく心細くなること幾たびか、このように生活が安定することさえ思っても見ることが出来ませんでした。
 現在まで頑張って来たのはそのためであり子々孫々まで残したいと思います。

 
 13 苦労も懐かしい思い出に  小林チヨ

 入植して早五十年。月日の経つのは早いものですね。過ぎ去った昔の苦しかったこと悲しかったこと楽しかったことなどいろんなことが走馬灯の様に思い出されます。
 私は昭和十六年に主人と結婚しまして旧満州国牡丹江市に軍人の妻として渡満いたしました。当時は不自由のない楽しい暮らしでしたが戦争もはげしくなり敗戦となり悲しい思い出になりました。引き揚げる途中に二人の子供を亡くして裸一貫になり、子供達の冥福を祈りつつ帰国いたしました。
 昭和二十年九月、主人が復員して昭和二十一年に津島沢先に入植いたしました。四方が山ばかりで周りは木立で何も見えませんでした。きつねが出て来てびっくりしました。
 夜になると電気もなくランプの光だけで淋しい毎日でした。
 食糧難の時代でしたので、食べるのも大変でした。朝早くから夜遅くまで月の光で畑仕事もしました。
 何でも初めての事でほんとうに苦労しました。想像もできない様なことばかりですが今になってみるとなつかしい思い出となりました。

14 ともに歩んだ妻に感謝  紺野武雄

 私の妻は農家出身ではない。皆さまの細君も同じ出身と思ふ。
 終戦後、食糧増産に開拓事業に辛苦の中を私と共に一家の主婦として母としての影の力となって五十年もの永い間働いて来た妻、御苦労であった。感謝の気持ちでいっぱいである。今後は健康に注意されいつまでも生きてほしいと念願するものである。

 
15 ホッと気づくと早83歳  紺野信義

 今の所に入植する以前はコオシン坂に居ましたが拓地が少なくて二十六年に土地の再配分を受けて現在地に移りました。二十七年四月二家を新築して幼い子供たち五人もいる中で資金ぐりに苦しみました。
 食べるために朝早くから夜遅くまで開拓をしました。今は水田になって食べることには困らなくなり、四十六年に嫁をもらい孫も五人いてほっとしている毎日です。八十三歳になりました。

16 マッチ棒も分けて使う  紺野吉一

 入植時は物資が不足し、生活に不自由した。マッチの棒は皆で分けて使った。今の生活からは予想もつかないことである。
 ロシアは中立条約を結んでおきながら侵入し、女子供を殺害して、人情のないひどい奴等だと今でも思っている。

17 家や食糧…心配尽きず   坂下光郎

 入植と同時に住み家の心配でした。近く原野にてかやを刈り取って掘っ立て小屋作り、また食糧の心配、朝明けきらない中より開墾に夢中でした。
 日中は山にて炭の原木(たなぎ)一間(二尺四寸×六尺)を一二〇円で鋸を使って日に二間位で当時の日当を働き、店に米など売ってなく麦のいも飯を食べての苦労した開墾生活が思い出になります。
 また昭和三十年頃、青年十数名にて農事研究会を普及所の指導により肥料の使い方や土地の改良、麦や馬鈴薯や作物の生育状態の研究発表など、また土壌改良など農作物の増産、また開墾の進んでいない農家に研究会全員にて応援に鍬をかついで汗を流した事など、また日本農業という雑誌社に農作物研究発表を送り農業賞を受けた思い出も記憶に残っています。

18 自分の田になった歓び  三瓶栄樹

 私は昭和二十年入植。地元出身です。先ず住まいからと仮小屋を建て父母兄弟五名家族。耕地が川沿いなので田圃作り、食糧がないので毎日糧て飯(大根、豆、芋)腹の減っての田圃作りは全く大変でした。
 今入植当時を考えると何でも出来る様な木が致します。
 昭和二十八年結婚。お陰様でみな身体が丈夫、開墾に精を出し昭和三十二年成功検査に合格。自分の土地となり本当に嬉しかった。
 今現在隣同志仲良く野菜はぐった(失敗した)なと言えば貰ったり、また呉れたりしています。

19 資金積み立て電気灯る   三瓶明雄

 昭和二十年八月十五日終戦になり、当時片山内閣で国有林開放と共に開拓地を取り原始林を切り炭を焼き、営林署に収めてその後山をおこし麦、大豆、アワ、キミを作り、夜昼なく増産にと励んでまいりました。
 また三十年に家内を迎え三十一年に若い人達で沢先農事研究会を結成し、三十四年に電気導入資金として個人別に資金を積み立て、ようやく電気導入がみのり、三十五年五月十五日に電気の光が見ることが出来ました。
 その後、出稼ぎブームがおとずれ出稼ぎへと向かった。今は子供達も大きくなり、世の中もかわり昭和六十三年石材業へと移り、平成になって円高が進み、また第二の開拓がやって来たと思いながら営んでおります。

三瓶明雄氏は、DASH村で大工指導をして出演。

20 心の支えは近所の人々  三瓶幸蔵

 入植当時は、車も入らない細い道で田畑も手で耕し、小さいものでした。収穫したものを背中にしょったり、リヤカーで運んだり、手に引かせたものです。五十年振り変えれば、いろいろな事がありました。
 でも近所の皆さんに支えられて、今現在まで過ごして来ました。これからもこの地にて頑張って行きたいと思います。

21 戦後100年に向け家族一丸  三瓶高男

 昭和二十二年。
 私の父は地元の農家の三男でした。入植したときはハダシでハダカ一つだったそうです。昭和二十四年に長女とよ、あと二十五年に三瓶家の長男として私が生まれました。
 その後私のあとに男子三人、女子二人合計七人と父母との九人家族となりました。
 この時から私たちの五十年の歩みの始まりとなりました。住まいは萱葺き屋根の六畳一間、八畳一間、かまや六畳でした。風呂は露天風呂でした。ふろに入る時は露店風呂で空の星を見ながら入っていました。今思えばなつかしいです。
 それから一番悲しかった事があります。それは私の隣にいた小椋さんが突然ブラジルに行くといった事です。その人が出発したのは昭和三十五年の六月末頃でした。その別れが一番かなしい思い出として残りました。
 それから私たちも一生懸命頑張って働いてきて現在にあります。今は一番苦しいときでもありますが、楽しい時でもあります。それは私たちも子供三人に恵まれているからです。
 最後に前にも話した事ですがブラジルに行った人と平成二年九月に三十年ぶりに会ったことです。もう会えないと思っていたのが会えたので一番良い思い出になりました。
 これから戦後百年にむけて家族一生懸命がんばっていきたいと思います。
 役員のみなさまはほんとうに有りがとうございました。書きたい事はまだまだ有りますがこのへんで終りたいと思います。ありがとうございました。

22 震えながら仕事手伝い   三瓶富雄

 入植五十年を何かいいますが、私は入植当時小さくてあまり記憶には有りませんが、父は山仕事をしているのを思い出します。その後、私が十歳前後の頃から山仕事の手伝いに連れられて行き、切り倒された木をそりの効く所まで木をまくりそりで出すのを後から押して手伝い、桟橋に来ると震えながら手伝ったのが思い出されます。
 また、広谷地に炭窯を作り炭焼きをしている頃です。夜の夜中に「おい二人で炭窯を見て来い」と言われ、弟と二人でおっかなびっくり見に行ったのですが、まだ煙が少し残っていたのですがもう一度来るのが恐ろしいので窯を留めて来てしまい、炭を出してみたらね燃が出来てしまい叱られたのが思い出します。
 また、嬉しいことも有りました。私が小学校三・四年の頃、父が田んぼを作るのを手伝い姉と二人で高い所からもっこで運び、石を拾い手に豆ができたのを我慢し四アール位の田んぼを作り田植えをしました。
 秋になりコメが穫れ、みんなで喜んだ事を思い出しました。
 まだまだ沢山有りますが……。

23 葉たばこ作り続け30年  三瓶トシエ

 私は昭和三十七年に嫁に来て三人の子供を育てて、たばこと米作りに働いてまいりました。台風や長雨で米もたばこも取れずひどい年もあったけど、たばこ作り産十年あまりやってきましたが、平成六年は一番よかったと思います。

24 開拓魂を忘れずに敢闘  高橋清重

 私は二十三年秋シベリアから復員して親戚をたよって今の所に飯盒一つで二十四年に入植した。朝早くから夜おそくまで開墾した。
 ある時は雷雨の中で開墾していると近くに雷が落ちて四、五メートルも飛ばされた事がある。
 また小屋が雪でつぶされてあやうく命が助かった。冬は雪が一メートル近くもつもる。二キロ位の奥山の古い炭がまの中で三瓶明雄君と営林署の炭の賃焼きして十五キログラム入りザク炭で二五円位だったと思う。
 一〇日に一回ぐらい近く野家でお風呂をもらった。真っ黒な体で洗い流した。今になって考えると大変迷惑なことと思います。
 ある時はくらい夜、一〇時頃一人で炭ガマに帰る時高い桟橋の中ごろで頭の真上で突然にギャーと大きな声でバントリ(むささび)に鳴かれて危なく桟橋から落ちそうになりました。
 その様にして春から秋までの開拓資金を造りました。開拓すると一反あたり二五〇〇円位の開拓補助金があったので本当に助かりました。
 三十四年三十五年組合長になり電灯導入資金作りに三瓶明雄君、坂下君の外十名位で毎月一〇〇円位の預金を始めたので津島地方ではいち早く三十五年に電灯がついた。
 三十六年に沢先共同養鶏を七名で始めたが、三十九年春から四十年八月まで鶏卵の手取り七〇~八〇円位で飼料はトン当たり七万円位で数百万円位赤地になり、ついに解散した。
 同志の皆さんに御迷惑をかけたのが残念であり、少しでも報いたいと考えています。畜産界の自由化により養鶏も前途は厳しいが開拓魂を忘れずに敢闘して行かねばならない。

25 新しい時代の流れ開拓  高橋和重

 五十年前、この地に父一人で入植し現在は家族が八人に増え生活しております。私が生まれた昭和三十四年の時にはまだまだ大変。厳しい時期だったと思います。着る服は兄、姉のを譲り受け私のところに来る頃は襟や袖口などは大きく広がり色も変色しておりました。新しい服を買ってもらうとうれしくて何回も何回も着ていたことを思い出されます。
 今私は、養鶏を父のもとで始めて十五年を経過しようとしています。卵の価格は私が始めた時も、五十年前の頃も現在も変わりません。物価の優等生として消費者に喜ばれております。
 今後、国際社会の中での農業、畜産分野でのウルグアイ・ウンド合意に基づき関税の引き下げ、円高と我々の養鶏も厳しい道になってきたと痛感しています。でも、日本では食糧は余裕がありますが世界を見ると日本のように食糧に余裕がある国は少なく毎年餓死者の出て居る国が数多くあります。
 食糧という意義を考えれば、これからの厳しい養鶏に対応した計画、行動をして新しい時代の養鶏にして行きたい。
 私は父が何もないこの地から開拓した事を思えば私も新しい時代の流れの養鶏を開拓していけば、道は開けると考えてこれからもこの地で生きて行きたいと思っております。

26 苦しい中にも喜びあり  高橋忠正

 乳牛を四十四年に仔牛で買入たのが始まりで現在は三〇匹位になりました。ここまでの間にはなん匹も死なせたり病気にしたり苦闘の連続でした。
 五十七年に牛の品評会で金賞をもらいました。家族や畜友と悦びあいました。その後も度々いろいろな賞状をもらい苦しい中にも悦びあり家族皆でほっとしました。乳牛も自由化の中に立たされ前途ははなはだ厳しいものがあります。

  
27 子供に励まされ生きる  高橋サイ

 ソリの下になって九死に一生を得ました。県立医大病院に一年六か月の長い闘病生活に幼い子供らとともに苦しい苦しい生活をつづけました。死にたくなった時もあります。子供達にはげまされて今日まで参りました。
 

28 両親の苦労あってこそ  永橋謙義

 戦後まもない昭和二十一年一月この地に入植し開墾を始めたそうです。
 その頃まだ自分は生れていませんでしたから入植当時のことは知りません。生まれて物心がついた頃両親から聞かされた話によると苦労の連続だったそうです。ろくに食べる物もなく大変な時期だったとか、いろんなことがあったそうです。
 そして四十五歳で入植し苦労して開墾して昭和四十五年六十九歳でこの世を去りました。
 その後、二代目の自分は昭和四十七年肉牛飼育を始めて現在にいたっています。

 29 一鍬一鍬で原野を拓く  長峰キヌヰ

 月日のたつのは早いもの入植五十年になりました。入植した当時は石油ランプで針仕事など思う様には出来ずに子供達を育てるのに苦労しました。自分の手で一クワ一クワ原野を開拓しました。作物は思うように穫れなく食事にも事欠く毎日でした。
 三十五年の五月に電燈がつきラジオなども買入て家の中がいっぺんに明るくなって、子供達が跳びあがって喜んだ事などは昨日のように想い出されます。

30 思い出は走馬灯のよう  山田ミノイ

 過ぎし日を語りあう友人ゆきて
 老いの身なほも老いてゆきけり
 三瓶富蔵さんが(四月十日)亡くなった時に詠んだ短歌である。開拓同志の血のにじむ思いがほとばしった歌である。また木の橋がコンクリート橋になった日はうれしくて涙が出てしかたがなかったと言った父は八十七歳で昭和五十一年十二月二十七日亡くなりました。それが私の父の思い出であり開拓五十年の中でいろいろあったが今も昨日に思われます。

31 牛とともに頑張り抜く  門馬ハルイ

 室原から昭和二十三年ごろ私は嫁いで沢先今の門馬家に来ました。そのころは仕事は山仕事が多く一番つらかった事、冬山の雪はきで疲れ食べる物がなかったので山仕事もすぐ体力がなくなり泣いたこともあります。
 夜の炭出し背にしょって家族で頑張りました。あまり良くない炭を出し営林署から炭を買ってもらえなくなった事もあります。それからは開拓組合から和牛にかえて四十年、今でも酪農を続け牛と共に頑張り生きて来ました。当日は牧草などはなく、営林署の山から山草を集め牛をそだてて乳をしぼりました。今ふりかえってみると、年を取った事ばかりで苦労ばかりして来た思いです。今は、孫の成長が楽しみでもあり将来の事を考えると心配もあります。

32 親の苦労忘れず頑張る  門馬光男

 昭和二十三年の年に入植以来じいさんとばあさんは鍛冶屋をつづけ農家で利用する道具はほとんど作ったり直したりしてきました。また家畜等も好きだった事から乳牛をはじめ、和牛に切り替えても八十歳をすぎるまで心配しつづけてくれました。鍛冶屋仕事は出来なくとも今は息子も大きく成り石材関係の仕事に行ってます。農業も田畑と家畜を今も続けじいさん達の苦労を忘れないように頑張って行くつもりです。僕も田沢町の方から来て早くも三十年になりますが沢先は本当に良い所だと思います。

33 月の光で開墾した父母  吉田留夫

 父豊次が昭和二十三年に入植いたしました。その当時、毎年開墾地を調査する制度がありました。たしか成功検査だったと思います。その検査を確認する日が近くなる頃、私の父母は幼子を抱いて朝は陽が出ないうちから陽が西の山に沈んで月の光で開墾地にいって耕していました。
 私も学校から帰ってきてから、また人手がない時は学校を休んで開墾の手伝いをして苦労した事をなつかしく思い出されます。
 その父が昭和三十五年に出稼ぎの北海道から病死の報せを聞きました。私は母を助けるため中学校を卒業すると同時に東京に出稼ぎに行き少しでも母のため妹達のために働きました。現在は祖母を含め家族六人何事もなくこの地で暮らしています。

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