ロイター通信
http://jp.reuters.com/article/idJP2011040201000930
Domestic | 2011年 04月 2日 22:18 JST
福島民友新聞記者が死亡

 東日本大震災直後に行方不明となった福島民友新聞社(福島市)の記者熊田由貴生さん(24)が死亡していたことが2日、分かった。遺体が同日、取材エリアの福島県南相馬市内で見つかり、南相馬署から配属先の相双支社に連絡があった。津波に巻き込まれたとみられる。福島民友によると、熊田さんは発生直後の先月11日午後4時ごろ、相双支社に「自宅のアパートを確認したが、大丈夫」と連絡し、支社長が南相馬市役所に向かうよう指示したのを最後に行方不明となった。熊田さんは2009年に入社し、本社編集局整理部を経て10年4月から相双支社勤務。同社の松原正明総務局長は「痛恨の極みです」と話した。

熊田記者の殉職を悼む  2011・6・9 おはようドミンゴ

 東日本震災の大津波では、三陸海岸はじめ多くの現場で避難誘導していた警察官や消防団員が多数殉職した。死を覚悟した役場の女子職員が防災無線のマイクを握ったまま津波に飲まれて壮烈な殉職を遂げた例もあった。
 わが南相馬では、民友相双支社記者熊田由貴生君(24)が若い命を散らした。彼は郡山市の出身で2009年に入社して整理部勤務のあと、昨年は相馬野馬追祭などを中心に現場記者として南相馬のトピックを精力的に取材し、道の駅での「無線塔大回顧展」や中央図書館での「野馬追百年史展」など連続展示会を開催していたわたしは、何度も取材でお世話になった。きまじめでさわやかな青年記者は初々しく、まぶしかった。
 地震直後に支社に健在を電話し、すぐ鹿島区の津波跡に向かったらしく、四月になって瓦礫の田んぼの中で発見された。未来ある新進記者の死は、職業意識の精粋であり最前線での殉職である。
 君の凝縮した生は報道人としてのガッツ精神の塊だ。原発事故に負けずに生き残った福島県民の守護霊となって、将来の復興まで見守って欲しい。

記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞 amazon

 2011年3月11日、一人の新聞記者が死んだ。
 福島民友新聞記者、熊田由貴生、享年24。福島県南相馬市で津波の最前線で取材をしていた熊田記者は、自分の命と引きかえに地元の人間の命を救った。
 その死は、仲間に衝撃を与えた。それは、ほかの記者たちも同じように津波を撮るべく海に向かい、そして、命の危機に陥っていたからである。なかには目の前で津波に呑まれる人を救うことができなかった記者もいた。
 熊田が死んで、俺が生き残った――。熊田記者の「死」は、生き残った記者たちに哀しみと傷痕を残した。それは、「命」というものを深く考えさせ、その意味を問い直す重い課題をそれぞれに突きつけた。
 創刊以来、100年を超える歴史を持つ福島民友新聞はこの時、記者を喪っただけでなく、激震とそれに伴う停電、さらには非常用発電機のトラブルで、新聞が発行できない崖っ淵に立たされた。創刊以来の「紙齢(しれい)を欠く」ことは新聞にとって「死」を意味する。ぎりぎりの状況で、凄まじい新聞人たちの闘いが展開された。
 さらに地震、津波、放射能汚染という複合災害の現場となった福島県の「浜通り」では、この“三重苦”によって、「読者」も、「新聞記者」も、「販売店」も、すべてが被災者となり、そのエリアから去らざるを得なくなった。
 それは、日本の新聞が初めて経験した「新聞エリアの欠落」にほかならなかった。考えられうる最悪の事態の中で、彼ら新聞人はどう闘ったのか。
 「震災を、福島を報じなくては――」。取材の最前線でなぜ記者は、死んだのか。そして、その死は、なぜ仲間たちに負い目とトラウマを残したのか。ノンフィクション作家・門田隆将が当事者たちの実名証言で綴る『死の淵を見た男』に次ぐ福島第二弾。「命」とは何か、「新聞」とは何か、を問う魂が震える感動の実話とは――。
内容(「BOOK」データベースより)
 大津波の最前線で取材していた24歳の地元紙記者は、なぜ死んだのか。そして、その死は、なぜ仲間たちに負い目とトラウマを残したのか。記者を喪っただけでなく、新聞発行そのものの危機に陥った「福島民友新聞」を舞台に繰り広げられた壮絶な執念と葛藤のドラマ。

ふくしま1年の記録(福島民報社) 自治体・本紙記者
 3月11日の午後2時46分、東日本大震災が発生し、東京電力福島第一、第二原発が全停止した。
 福島民報浪江支局長の浅見公紀は、支局で遅い昼食をとりながら原稿を書いていた。経験したことのない揺れに、靴下のまま慌てて外に飛び出した。自力では立っていられない。支局の前に止めた車につかまって周囲を見渡すと電柱は大きく揺れ、道路向かいの店舗のショーウインドーが「バリバリ」と音を立てて割れた。
 支局がある浪江町中の新聞は福島第一原発から北に約9キロ。サイレンが鳴り響き、防災無線が「大津波警報」を繰り返していた。
 この時はまだ一般加入電話が通じた。浅見がすぐに第一原発の広報に電話すると、「稼働中の全号機は自動停止。現場確認中」とのことだった。浪江町の請戸漁港周辺には高台がない。「海には行きません」という浅見に、本社のデスクも「絶対に行くな」と指示した。
 午後4時ごろ、町役場の屋上にいた浅見は真っ黒な津波が6号線国道に向かってくるのを見ていた。夢中でカメラのシャッターを切ったが、体が震えるのがわかった。
 役場2階に設けられた災害対策本部には町長の馬場有ら幹部職員や消防関係者が詰め、沿岸の請戸地地区などの被害状況把握と被災者の救助に忙殺されていた。役場は停電し、非常用の発電機の音が響く。一般加入電話、ファックス、携帯電話はほとんどつながらず、国や県とも満足に連絡が取れない。福島第一原発ぼ情報はテレビで得るだけだった。真っ黒な雲に覆われたり、横殴りの雪になったり、きれいに晴れたり、この日の双葉地方の天候は目まぐるしく変わった。夕闇が迫るころ、「津波で多くの人が行方不明になっている」との情報が伝わった。
 福島第二原発に近い福島民報富岡支局長の神野誠は四月の異動を控え、支局の不用品を処分するため楢葉町の焼却処分場にいた。携帯電話の警報音と同時に長い揺れが始まった。第二原発からわずか2キロという距離に不安を感じた。車のラジオが大津波警報を告げていた。
 一度高台に登り、町を見渡すと屋根瓦が崩れた家や陥没した道があちこちにあった。支局に立ち寄り、必要な物を取り出して地元の双葉警察署に向かったが「建物が古い。津浪に流される可能性があるから逃げろ」と言われた。町の災害対策本部が設けられた文化交流センター「学びの森」に行くと「津波があがった」という情報が入って来た。
 午後3時45分、富岡漁港近くの見慣れた風景は一変していた。あったはずの漁港の建物はオレンジ色の鉄筋だけになり、沿岸部の建物も土台だけだった。腹を上にして打ち上げられた漁船、欄干だけになった橋、水没したパトカー…。橋の下の濡れ具合から津波は15メートルほどの高さがあったと推察された。
 神野はこのころ、白い煙が第二原発から立ち上ったのを見ている。情報がない中、その場に来た第二原発の職員にも「何だかわからない」と言われ、不安は膨らんだ。これは後日、非常用デイーゼル発電機の始動に伴う水蒸気と確認された。P60

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