地域の絆
 当時の楽しい思い出といえば、土用の丑の日に、松本屋(私の家の分家)のおばあさんに海に連れて行ってもらったこと。太っ腹なおばあさんで、町組の子供達全員を連れて行ったのだ。当時の子供達は海など見たことがなく、汽車にも乗ったことはない。それは大きな楽しみだった。福浪線のバスに乗って浪江駅まで行き、海岸部の請戸までは、記憶にないがたぶん歩いたのだ。自家用車など皆無の当時、バスは一も満員だった。
 バスは、戦後暫く木炭バスが走っていた。小学生の夏休み、何時も午後1時半になるとバスの試運転が行われる。試運転は塩浸まで行って引き返すのだが、運転手にせがんで乗せてもらうのが楽しみだった。またバスの後ろに飛び乗るのが冒険心をくすぐり面白かった。木炭バスは坂道になると馬力不足で速度が低下する。途中、松木山の辺りが緩やかな上り坂になっていてスピードダウンするので、そこで飛び降りないと終着点まで行くことになってしまうのだ。
 当時、磐城津島駅があって、駅長、助役、技工士、運転手、車掌など大勢の人が働いていた。駅舎が何時出来たのか定かではないが、敷地は私の先祖が提供したと聞いている。
 駅舎には、修理作業場、駐車場、薪の保管場所があり、た国鉄のトラックが常駐して貨物も扱っていた。駅舎の後ろに職員宿舎があり、学校を除けば地域内で見っとも立派な建物だった。ほとんど満杯に埋まっていたが、松川事件の頃にレッドパージがあって組合員が整理され、また自家用車など交通機関の発達に伴って次第にこの体制は崩れていった。
 駅舎の思い出として記憶に残るのは、映画館として利用されたこと。私が最初二見tら映画がここで上映された。今思えばむーじかる形式の無声映画で、題は「狸御殿」。何故か弁士はつかず、画面だけが動いていた。
 その駅舎で火事があった。内部は殆ど焼け落ちたが、鉄骨・モルタル造りの外観は残され今に至っている。その際の原の石井恒雄さんの武勇伝が語り草になっている。恒雄さんは、燃え盛る建物内に飛び込んで、燃料などが入っていいるドラム缶を運びだしたのだ。しかし、全てを運び出すことは叶わず、残された燃料・オイル・グリースなどは爆発し、その音は凄まじかった。私も瓶にグリースを詰めて盗んだのだ。
 
 戦時中、こんな事もあった。川向かいの南津島・中下の大きな建物に兵隊が大勢いた。新潟が中心だが葛尾村出身の兵隊もいた。兵隊たちは堂の下から上った大久保の山間で炭焼きをしていて、山路の脇に炭焼き釜がたくさんあった。地元の人はこの山を兵隊山と呼びならわした。兵隊たちは宿舎近くの中下グランドで演習もした。模擬洗車を引いて、グランドに掘った蛸壺から手りゅう弾を投げつける訓練を、私は草むらに隠れ興味津々のぞき見した。兵隊たちは週に一回近くの民家に風呂に入りに来た。それが子供心に楽しみだった。
 誰も覚えていないようだが、模擬戦車は時々松本屋前の道路脇に置かれた。あれは、戦意高揚のためだったのだろうか。
 木炭は、運び出すまでの間、集落内の道路脇に集積された。崩れないように薪と一緒に針金で結束されていたが、モノ不足の時代とて、その針金が結構紛失した。子供達の格好の遊び罵にもなって、国分幸くんは、この上に上がって遊んでいるうちに転んで、額に怪我をした。その傷跡は今も残っているはずだ。
 
戦後のエピソード
 戦後間もなく、米国兵がジープで小中学校に来た。土足のまま校舎内に上がり、掲げられていた長刀を膝で折った。私達の礼儀を甚だしく無視した無礼なやり方だと感じた。
 叔父叔母のつながりの関係で、私の家にも米国兵が来て泊まった。今でも憶えている名前はロジアス・ハロー。米国兵に日本語を教えている先生とのことで、日本語が達者。近在の青年たちが大勢集まって歓迎した。土産にキャメルなどの煙草や大きな缶入りのチョコレートを沢山いただいた。私は、その空き缶に弁当を詰めて学校に行くのが自慢だった。ローマ字を習って自分の名芽を書いた。彼はカメラも持ってきて記念の写真を撮ったが、混雑する帰りのバスの車中で盗まれてしまったとのこと。
津島を訪問した進駐軍ハロー氏の和服姿
 来訪のお礼に、後日祖母ツルと一緒に仙台の進駐軍駐屯所まで行った。汽車はやっと乗れるほど混雑していた。仙台は見事に一面焼野が原で驚いた。
 遊びではないが、国分の和吉じいさんの飴作りを見るのも楽しみだった。鍋で煮詰めた材料を繰り返し鈎に引っ掛けて伸ばし、千切ってできあがった飴をオブラートに包むのを手伝った。褒美に飴をもらえるのが嬉しかった。そう言えば、傍らに置いてあった和菓子作りに使う鯛、米俵、宝船などの木型は今でもあるのだろうか。

3.11 ある被災地の記録

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