原発避難 ふるさとへの思い、脳裏を離れず
大和田貞(ただし) 下津島大和久34 川口市に避難
3.11の東日本大震災、それに引き続く原発事故のためふるさとを追われ、現在は埼玉県川口市の市営住宅に避難している。
原発事故のため、震災翌日、嫁長男の妻の親族など10人ほどが我が家に避難してきた。電話が通じないなど近隣の動向が把握できず、まして放射能が拡散している情報などは一切入らなかった。両足切断の障害がある妻は車椅子でないと生活できないため、避難するといっても容易でなく、どうすべきか悩んだ。私たち夫婦以外は先に避難していった。だが、容易ならざる切迫した事態であることは明白だったので、私達も3月15日に川俣、福島方面に一旦は避難した。当時たまたま一緒にいた、昼曽根の姉・綾子も同行した。だが、体育館などのひな所では妻はトイレを使うことさえ容易でない。障碍者専用に車椅子で利用できるトイレがない避難所での生活は無理と判断し、カワマタ町のリオンドールで残り少ない食材を出来るだけ買い集め、その日の内に家に戻った。自宅はトイレ、風呂、居間、台所や玄関の昇降など全て車椅子用に改造してあるため、妻は何不自由なく生活できるのだ。
3月17日の深夜、玄関を激しく叩く音に起きてみると、長男の貞二を先頭に子供達が車2台で来て、このままでは危険だ、避難しなければと必死に説得されたので、急いで支度して、郡山・開成山でスクリーニングを受け、栃木県下野市の次男。道保の家に避難した。しかし、普通の住宅のため車椅子での長期間の生活は困難だった。このため、車椅子の生活ができる避難所を探したところ、知人の世話もあって緊急避難的にではあるがどうにか30日に二本松市の老健施設に入所できることとなった。約1か月世話になったが、施設長から避難所ではないので可能なら早期に移動して欲しいと要請され、また埼玉県草加市みいつ四男・貞彦が車椅子でも生活できる現在の住宅を探してくれたので、4月30日に移ることが出来て本当に助かった。
その間、私は一緒に生活できないため二本松市の針道小学校に避難した。日中ストーブで暖を取っても寒く、ガムテープで貼り繋いだ段ボールなどを断熱材に利用して過ごした。寒さのせいだろうが咳が酷くなって、気づいた長女・房子が福島市の渡利病院を手配してくれた。肺炎の診断で、約3週間入院した。退院後、4月11日に磐梯山の山腹にあるホテルに避難し、その後妻の入院先に合流して現在に至っている。肺炎の予後は余り芳しくなく、川口でも埼玉共同病院で定期的に受信し治療しているが、携帯炭素の吸入が手放せなくなってしまった。
願いはふるさとに、自宅に帰ることだが、高齢者だけが帰っても生活は成り立たないだろう。放射能に汚染されてしまったため田も畑も、野菜作りもできない。帰りたいが、不安が先立つ。80年の生涯を過ごした掛け替えのないふるさとなのだから、そこでの生活を心から願うのは当たり前のことなのに、それが叶わないくやしさ、悲ししさ、寂しさに打ち拉がれる。これまで苦労し、人生を懸けて築いて来た自宅、田畑、財産はどうなってしまうのか。このまま放置されるるのか。悩みは尽きず、毎日脳裏を離れたことはない。長男夫婦は山梨に避難し、家族もバラバラになってしまった。現状は暗中模索状態で、将来への希望が持てない。知人などから手紙をもらうと嬉しく、自らを励ましているのが現状だ。
高齢者老い先が短いので、放射能の危険を承知の上で生活することも可能だろうが、若い世代にそれは出来ない。ふるさとや自宅、土地は荒れるに任せるしかないのか、それが非常に悔しい。
町などからアンケートが来る。帰町の意向調査が入っているが、果たして町民の意向を把握しきれるのだろうか。町民は、放射能の恐ろしさが身に染みているのだ。放射能をまき散らした政府や東電に対する怒りや憤りのやり場がない。
我々被災者に対するふるさと再生や生活の再建手段も与えず、自己の原因究明や収束作業も終えないままの原発の再稼働など言語道断であり理解できない。
帰還困難地域にされた地域の人々が皆で集まって、生活再建や将来のことを考え、話し合える場所がほしい。そうした場を設ける国や町の対応があってもいいのではないか。部落の集会でもそうした時間を設けたらどうだろうか。
3.11 ある被災地の記録 浪江町津島地区のこれまで、あのとき、そしてこれから25.7.31聴き取り