渡辺敏 原発事故
 3月11日、地震の時は家にいた。仏壇から位牌が義び出す激しい揺れに直ぐに外に飛び出したが、妻はテレビが倒れないよう懸命に支えていた。
 翌12日に、末の妹・恵子家族や親戚など約10人がワゴン車などに布団を積んで避難してきた。その後、福島市にいる長男の彰から早く逃げろと何度もい流されたが、14日まで津島にとどまっていた。13日には断水した長男宅のため、ビニールを張った段ボールや一升瓶などありとあらゆるものに水を汲んで軽トラックに積み込み、川俣で落ち合って受け渡した。避難してきた若い人達は携帯で情報を集め、原発が危険な状況にあると言って14日の昼食後に出て行った。私達は家の中を片付け、夕方に福島市の長男宅に避難した。そこには長男夫婦と子供3人、私達夫婦に加え長女・千代子たち家族3人も避難して生活することとなった。教員をしている長男夫婦は学校に避難してきた人達の世話をするため毎日通い、帰りも遅かった。約一週間断水したままだったので、近くの橘高校に設置された仮設トイレに行って用を足した。17日頃、皆で飯坂温泉に行った。久しぶりの入浴だった。

 長男とはいえ、先の見えないまま何時までも世話になっていることはできないので、5月3日に北塩原のペンションに移った。近くに五色沼があり、毎朝湖岸を散歩した。近くの中学校の生徒たちと畑に馬鈴薯を植えたりした。しかし、上げ膳据え膳の生活で、何もすることがない。雨の日以外はとにかくで歩いて退屈を紛らわした。ふるさとを追われた仮の宿の生活は、生きがいも何も感じられないものだった。近くに避難してきた知り合いには、矢吹公正、武藤善富、三瓶忠重、末ノ森フミ子、大和田順、山本幸男さんなどがいた。
 その後、7月25日に現在のアパート(借り上げ住宅)に入った。15日に移転する予定だったが、電化製品等の支援物資が届かないため遅れた。
 アパートに住んで居れば、隣人とも顔を合わせるので挨拶はする。しかし、それは人づきあいとは言えない。やはり親しく何でも話せる仲でないと本当の意味の地域での生活とは言えないだろう。それが、私達高齢者にとっては非常につらく寂しいことである。

 その後も一時立ち入りして自宅に戻っている。そのたびに、あれは手たふるさとを見て愕然とする。バラバラにされてしまった地域が、震災以前に戻れればよいのだが、その望みは難しいのが現状だ。まとまってふるさとに帰れれば一番いいのだが……。しかし、知人や友人、親戚もバラバラに避難し、戻ってくるかどうか分からない。ふるさとに、家に帰るつもりでいても、土地や家を買った人などの話を聞くと、戻っても以前とは違ってしまうことを考え気持ちが揺れる。知らない土地で歳を重ねるのは本当に辛い。地域にいれば、何かとと頼れたのに、避難先ではそれも出着ない。せめて、地域の親しい人達がまとまって生活できるようにならないものだろうか。

3.11 ある被災地の記録 浪江町津島地区のこれまで、あのとき、そしてこれから

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