今野洋一 原発事故 落首に託す避難生活
避難以来、何度も家に戻った。何ら落ち度がないにもかかわらず、原発事故のためふるさとを追われたお借りが治まらず、やるかたない憤りを落首にして自宅窓に貼りだしている。最初に「放射能ツアー大募集中!! 東電セシウム観光 先着100名無料」と書いた。一番新しいものは、マッカーサーの言葉を借りて「I shall returne」と記した。現在掲げているものは次のとおりである。
・ 今日も暮れゆく仮設の村で 友よつらかろせつなかろ
いつか帰る日を想い 一時帰宅 平成23年5月
・ 拝啓東京電力殿 仮設でパチンコできるのも東電さんのおかげです 仮設で涙流すのも 東電さんのおかげです 東電さんよありがとう 12月12日 里帰り(平成23年)
・ 内部被曝の「ヘビ」 法により食することを禁ず 環境(庁)省 (平成24年)
(窓辺にゴム製のヘビの模型を展示)
・ 今年は梅の花まだ開花せず 「主なしとて春を忘るな」 平成24年4月1日 一時帰宅
・ お盆帰り 暮れてなほ命のかぎりセミしぐれ 平成24年8月14日 一時帰宅
・ 二人が絆が深いのは 東電さんのおかげです 東電さんよありがとう
(仮設住宅で撮った私達夫婦の写真に添えて 平成24年)
・ 放射能体験ツアー大募集!! 美しいホットスポット巡り 東電セシウム観光 平成24年
・ I shall returne 老兵は死なず いつの日か必ずこの地に帰る 放射能如きに負けてたまるか 平成25年3月3日 一時帰宅
取材のため現地に入って窓越しに「今日も暮れゆく仮設…」の文句を読み、被災者の悲惨な心情を思って涙が止まらなかったと、わざわざ私の避難先まで気て伝えてくれた新聞記者もいた。
I shall returne
生まれ育ったふるさとを追われることは堪え難い。そこから逃げ出すことはできない、絶対に戻る。止むを得ず一度は引きさがるが、必ずふるさとを取り戻すことが私の生き甲斐だ。それまでは気力を振り絞って頑張るつもりである。如何に荒れ果てようが、そこが私のふるさとだからだ。そして、大好きな庭作りをしたい。これまで何度も庭作りをしてきたが、再度取り組むのが私の夢であり、生きがいなのだ。そして、津島地域の復興・再生を心から祈願したい。
最後に、これまでの人生で世話になった方がたに感謝したい。
恩師の小泉泰二、大河原正二、佐藤信子、視野が広く人生の指南役でもある分家の当主・今野又二(故人)、村開闢以来の秀才で子供時代からの友人・国分幸、高校の先輩の百姓で互いに頑張り合った今野勤、青年会などでいろいろ協力してもらった友人・三瓶肇、同級生でとても優しく、菩提寺の住職でもある横山周豊、商売を励まし合った梅津義雄、高校時代の大の友人の野球部で活躍した宮木光雄(故人)の各氏である。
また、この度の原発事故では、私の家に出所したばかりの人や赤ん坊を連れた人など大勢が避難してきて泊まった。一転して、西へ向け避難する際に、皆さんに後片付けなどで手伝ってもらい大変助かった。避難の先々では、体調悪化のため救急車に5回も頼らざるを得ず、二本松保険病院。寿泉堂病院、医大、済生会病院、鏡石クリニック、蓬莱東クリニックへの入院ではスタッフの皆さんに本当に世話になりました。またガソリンを手配してくれた須賀川市役所の職員や、仮設住宅入居後、同様に避難してきた皆さんに本当にお世話になりました。ありがとうございます。
それに何よりも、側に寄り添って私を介護してくれる妻の和子である。結婚後10年は曲がりなりにも健康を維持できたが、その後35年はほとんど腎臓病による透析・闘病に終始した。妻には心から感謝している。
逆境になると、小さな親切、助け合いが身に沁みてありがたいと感じる。残された人生は、この言葉を座右の銘にして行きたい。
平成25年5月20日聴取
3.11 ある被災地の記録 浪江町津島地区のこれまで、あのとき、そしてこれから