私はギャンブラー 庭造りにも熱中
子育てはそれほど苦労しなかった。父は早く亡くなっていたが、母が元気で頑張ってくれたのがありがたかった。が、唯一、次女・美智世を交通事故で無くしたことは痛恨の思いである。平成9年の冬、夜間、勤めから帰る途中、国道114号の昼曽根部落で民家に衝突し火災になった。事故の直後、当時消防団にいた国分悟さんが現場から事故の様子を知らせてくれて駆けつけたが駄目だった。葬儀の席上私は「親より早く死ぬなんて親不孝だ」と思わず叫んでしまった。将来ある身の娘を亡くしたことが、生涯の最大の悲しみである。
絵を描くことが好きだった。美大のスクーリングを受けたこともある。だが、腎臓病で思うようい体を動かせないこともあって、次第にギャンブルに関心が向いてしまった。自分で言うのも何だが、かなりなギャンブラーと自負している。
麻雀は青年会を辞めてからのめり込んだ。県大会で優勝するほど腕に自信があり、各種大会で優勝カップがたくさんある。中でも、飯坂温泉・ホテル大鳥の大会で優勝した思いは鮮烈に残っている。自ら企画して、地域内での大会も実施した。それ以外にも、競馬、パチンコにも熱中した。人口透析仲間の雑誌のコラム欄にギャンブル雑感を連載したこともある。
身を滅ぼすほどでないにしてもかなりの無茶をした。医師から無茶苦茶だ、とく今又まで保ったものものだと呆れられた。が、ギャンブルとなれば不思議と気力が湧いてくるのだ。病人扱いしてほしくないとの思いもあった。最後は精神力だ。結局自分の気力が頼りなのだ。
水田は2町歩ほどあったが、病気のため農業は出来なくなった。妻は勤めに専念した。そのため、事業に興味を持った。あれこれ思案している際に、知人がオイル買いを勧めてくれ大量に仕入れたところでオイルショックが起き、瞬く間に売れたこともある。その知人に勧められてガソリンスタンドを経営しようとしたが、やはり病気のことを考えて踏み切れず残念だった。精肉店を営んでそれなりに繁盛したこともある。
そんな人生だったが、その間に子供も育て、家も2軒建てた。蔵も修理した。人並み以上のことはしたと思う。家を建て健康な人と同様に一人前のことをし、新しい家に住んでもらう親孝行出来た。病気に罹ってもやれば出来ると頑張れたのが誇りである。
現在の家は、古い家を取り壊し昭和51年に建築した。平成11年には離れを新築。体が自由にならないこともあって、このころから池や庭造りに熱中した。今この一時を楽しむのが目的で、庭は「今樂園」と名付けた。
最初、取り壊した古い家の敷地に池を作り、搦め手にある自分の山の水源からパイプを約700m敷設して水を引き、鯉や金魚、ヤマメ、ニジマスなどを放した。その後、裏の山手にある教員住宅の下や、津島診療所に通じる道沿いに、石を配置し庭や池を数次に亘り作った。地域の民さんにも楽しんでもらいたい思いをこめて、一帯を「ささやきの小道・ロマンチック街道」と名付けた。
私の家は江戸時代から続き、8代前から遡及することが出来る。地域(町組)内で江戸時代から続く家系で今に残るのは私の家だけである。昔、上津島・東館の近くにあった家は、明治初期に大火があったため、下津島の現在地に移転した聞いている。そのために、上津島に伝承されている「三匹獅子舞」は現在でも最初に私の上で舞い始める習わしとなっている。その当時家は手広く米穀の取引・仲売などを生業とし、原町(現在南相馬市)方面との取引もあって、当地に土地を所有していたそうである。そのためなのだろう、屋号は「穀屋」と言う。暫く前まで私を「穀屋の孫」と呼ぶ人がいたが、その人も亡くなってしまった。
3.11 ある被災地の記録