腎臓病と結婚
今野洋一夫妻
22~23歳頃に腎臓病を患って、3ケ月ほど入院する羽目になった。臨時の仕事に就こうと健康診断をすると高血圧と分かり、精密検査の結果腎臓病と診断された。幼い頃に罹患した風邪が遠因かも知れないが正確には不明で、このままでは長く保たない、延命治療を施さなければならない言われ、自暴自棄になった。余り話したくなが、当時町内の西病院に勤めていた妻の和子とこの当時に知り合って交際を続けていたが、病気のことを考えればなかなか結婚に踏み切れなかった。
私が病気のため曖昧な態度を繰り返す内に、先方の両親は別の人との結婚話を進め結納まで取り交わす段階に至ってしまった。だが、彼女はこの結婚を嫌い、浪江駅前から隣の叔父宅に電話し、逃げてきたので迎えに来てほしいと伝言があった。当時、家には農集電話しかなく、上手く私の家につながらなかったのだ。そここともあって私の心は決まり、急ぎ車で迎えに行った。ぎりぎりの瀬戸際で踏みとどまって私達は結婚できたのだ。冒頭に記したように、妻との不思議な因縁を感じる。
その間にも腎臓の病は進行したが、妻との間に1男3女の子宝に恵まれ幸せだった。長女・宙美、次女・美智世、長男・智将、三女・淳子である。人工透析をしなければならなくなったのは末子が生まれた後の39歳の時。
それ以降は入退院の繰り返しになった。透析は週に3回、その都度4~6時間ほど掛かる。当時は相双地区に透析治療できる病院がなく、いわき市や福島市に通った、
血液中に老廃物が溜まるとと疲れ、体が怠くなる。そのまま放置すれば命に関わる。透析すれば体調はよくなるが、非常に疲れる。透析後自宅に帰る途中で具合が悪く成り、車を放置したまま救急車で病院に逆戻りしたりしたことも再三ある。また福島市で透析していた頃、冬期間雪のため国道114号線が通行できなくなり、遠回りして三春軽油などで家まで帰ったことも3回ほどある。当時分家の今野丈二さんが福島市の病院に通院のため便乗することもあって、一緒に雪道で苦労した思い出が懐かしい。
腎臓病に罹って移行、腎友会の活動を積極的に行った。病院毎に組織する友の会長職も務めた。早期発見・早期治療・検査体制の整備などのため署名活動を行った。国会請願の活動もした。運動費を調達するため、宮城まり子デザインによる「I Love Ningen」とプリントされたTシャツの販売などもした。
腎臓病を患って苦労したこともあり、人生の友と呼べる人たちはその関係者が多い。長く会長職を務めた県腎友会の野地さん、同会の事務局を務めた西戸さん。だが、すでに何れも故人となってしまった。私が人工透析を開始して34年、それほど長生きできないと言われながらも今に至って、同病者の中ではトップクラスの長寿者になった。これまで知り合った方で亡くなった人は大勢いる。その意味でも、透析で長年世話になった福島市・佐藤内科の佐藤武寿医師は大恩人として感謝している。
東日本震災、それに続く原発事故による避難の際、大混乱の中で透析が出来ずに亡くなった方もいる。限られた透析治療ができる病院に大勢の患者が殺到し、週当たりの回数も2回に、また、透析時間も制限されるなど命に直結する事態で、非常に苦労した。この間、私も体調が悪化して、5回ほど救急車で運ばれ入院した。
3.11 ある被災地の記録(今野秀則編)より
透析患者の一番長かった一日