今野洋一 就学後

 小中学校の同級生は約百人。戦後の開拓に入植する人の出入るなどで、人数は固定していなかった。小学校で印象的だったのは、先生に「汽車に乗ったことがあるが、海を見たことがあるか」と必ず聞かれたこと。
 私の就学は終戦後まもない時期、生徒は栄養失調のため朝礼の際に大勢が倒れた。当時、弁当に卵焼きが入っている児童はまずいない中で「洋一は幸せだ、卵焼きがあるから」と言われた。ほかの家にももちろん鶏はいた。だが売って換金するため弁当のおかずにはならなかったのだ。日々いかに食つなぐか、ぎロ義理の生活をしている家庭が大半で、当時の幸せの基準はこんな処にあったのだ。
 学校では支援物資が配られた。靴やゴム草履など、数が少ない場合、くじ引きで割り当てた。ノミ・シラミ退治のDDTが振られるのが嫌だった。

 学校では十分な予算が無いので教材などを購入する資金造成のため、生徒はフキ取り、柏っ葉取り、イナゴ取りなどをした。落穂ひろいもした。中学校では稲刈りをした。
 津島小学校一年生の途中で第二小学校ができた。最初は手七郎、羽附、昼曽根の子供たちと一緒だったが、分校ができて分かれた。
 遠足は、低学年は南津島の佐藤畑、5年で高太石山、6年生が天王山(日山)、郊外活動、修学旅行は5年で川俣町機織り工場見学、6年で福島市・福島民報社・県庁見学だった。
 当時、運動会は小中高合同で実施した。場所は中下グランド。現在の国道114号バイパスが走っている部分に一段高くなった土手があって、観客はそこに陣取って見物した。出店もたくさん出てにぎわった。
 
 遊びは隣近所の子供たちと一緒がほとんどだったが、たまに同級生の帰り道に一緒に遠く山のほうまで行った。藤弦をとってぶら下がりターザン遊びなどをした。だが、家の手伝いがあるので、そう何時もできなかった。家は農家なので百姓仕事の手伝いや雨戸閉め、牛の切り藁づくり、雑巾がけ、風呂焚き、風呂の水汲み、庭掃きなどである。風呂水汲みは小川から兄弟と一緒に棒を通して手桶で運んだ。井戸はあったが釣瓶でくみ上げなければなければならず、小川から運んだ方が早く楽だった。風呂焚きの際に、トウミギ(トウモロコシ)を焼いて食べるのがおいしかった。
 当時の風呂はどこでも五右衛門風呂だったのに、分家の松本屋にはタイル貼り対流式釜の風呂があり、浴槽の脇壁のタイルに梅に鶯の絵が描かれていて、時々入りに行くのが楽しみだった。

 小学校舎は現在の町の診療所がある場所にあった。鈎型に校舎が配置されていて、東側の部分は教室の仕切りを取り払って講堂としても使用した。正面玄関を入ってすぐの薄暗い部屋に、正真正銘の頭蓋こちが置いてあった。触ったり持ち出したりすると先生に叱られたが、教材として今日知るに持ち込まれることもあった。
 中学校舎は懐かしい木造校舎で、有村医師の息子が設計したと聞いている。
 中学校での一番の思い出は、先生方に頼まれて宿直をしたこと。酒飲みの際に学校近くに家がある生徒に台宿を依頼したのだ。いかにもおおらかな時代である。私以外では萱深の遠藤鉄男くんなども台宿していた。
 おおらかといえば、子守りのため幼い兄弟を学校に連れてきて面倒をみる生徒もいた。家が農作業などで忙しいせいもあるのだろうが、私の同級生にも小さい子供を背負いながら授業を受ける生徒は結構いた。
 当時は個性ある面白い先生がいた。地元出身もいたが、村外からきて各家の離れを借家し、あるいは下宿している先生が多かった。教え子の家庭訪問にも熱心で、よく各家や私の父とドブロクを飲んでいたので、私たちは「がたくれ先生」などと親愛と揶揄を込めて呼びならした。次第に国立大学卒業の先生方が多くなり、中でも恩師の小泉、大河原先生などは今でも便りをやり取りしている。

3.11 ある被災地の記録

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