今野洋一 バンカラな高校時代

 高校は双葉町にある県立双葉高等学校へ進学した。受験の時は、浪江町の小泉泰二先生宅に米を持参して泊めてもらった。合格後のお礼にも米を届けた。同級生では池田満男。松村五郎、三瓶武夫、菅野洋子、金子千恵子さんも双葉高校に進学した。
 学校へは津島から朝5時起きして通った。夏はともかく秋冬は真っ暗い内に起きてバスで浪江駅まで行き、双葉駅まで汽車に乗り継いだ。3年間通して通った訳ではない。2年生以降は冬期間学校近くに間借りし自炊などもした。
 学校へは高下駄で通った。当時、高下駄で通う友人は沢山いた。旧制中学の気風が未だ色濃く残っていたのだろう、腰には手ぬぐいをぶら下げた。だが2年生途中だったと思うが禁止されてしまい、靴履きに切り替わった。結構、靴の盗難事件が頻発した。
 同級生は270人、普通科がA~D、商業科がEの5クラスで、私は進学コースに属した。
 それほど勉強に身を入れたとは言えず成績はいつも悪かったが、英語は得意科目だった。英語担当の泉田先生(渾名は二グロ)が「君は素質がある。これからも頑張れ」と答案用紙に大きく朱書してくれ、とても嬉しく励みになった。高校時代を通じ褒められたのはこの時だけである。今思えば、もっと各教科とも努力すべきだったと反省しているが、ほんの些細なことでも生徒にとって大きな励ましになる、それがあるべき教育の姿だと思う。
 高校では、煙草を吸うなど結構バカなことをやった。煙草に手を出す友人は多かった。類は友を呼ぶの例え通り、間借り先は悪友のたまり場と化した。

 汽車通は面白かった。友人と結構いたずらもした。
 久ノ浜の黒木叔母の家に世話になって常磐線で通学していた頃の思い出がある。途中、富岡と竜田の間に長いトンネルがある。夏は暑いので乗客は窓をほとんど開けているが、トンネルに入るとばい煙が入らないように窓を一斉に閉める。その直前に、あらかじめ切り刻んで袋に入れておいた新聞紙を先頭車両両側の窓から外に放り出すのだ。乗客は大量の紙吹雪が窓から入ってくるため驚いて大騒ぎになる。それが悪戯心をくすぐった。
 汽車といえば、当時闇米屋が大量のコメを集荷して運んでいた。各駅で積みこんだ米袋で座席の下はいっぱいだった。
 そういえば在校時に列車事故があった。急行列車北上号が双葉高校の西側、前田のガード付近で転覆し、死者3人が出た大事故だった。この時は、常磐線は不通になり浪江駅から双葉高校まで線路を歩いて、2校時目の時刻に間に合った記憶がある。
 
 自分で言うのも何だが、高校時代はバンカラだった。
 1年の時、甲子園出場を懸けた野球の試合が相馬市の二の丸野球場であった。その際は、弊衣破帽に応援旗を掲げて相馬市内を練り歩いた。決勝戦のこの試合に勝って甲子園出場が決まりかけたが、プロの指導を受けたことを咎められ、以後出場停止、対外試合を一年間禁止され、とても残念だった。とにかく、福島商業高校と並んで当時の双葉高校は誇り高く胸を張っていた、そんな時代だった。
 毎年、学校の遠足は海岸近くの夫沢だった。そこは戦争中飛行場として使用され、戦後は塩田として利用されていた。親戚の黒木の家がすぐ近くにあった。広々としたばそで場所、もっと有効に活用できないかと思っていたが、まさか原発敷地になるとは、当時は思いもしなかった。

3.11 ある被災地の記録

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