エピローグ
 2011年3月11日の大地震・津波と続く福島第一原発事故の複合核災害の直後に福島市は平常の経済生活ができなかった。
 南相馬の実家の家族が避難してきたのが翌日の12日。しばらくテレビのニュースをつけっ放しにして、ノートパソコンに電話線をつないでインターネットのブログとyou tube投稿で浜通りの情況を探した。福島をいつ脱出しようか、ガソリンの残量は間に合うだろうか。線量計を借りてきて自宅の周辺をチェックした。室内0.23マイクロシーベルト。年間1ミリのぎりぎりだ。
 4月初旬に10日遅れで「政経東北」4月号が書店の店頭に出た。若い記者が津波直後の浜通り相馬、原町、いわきのの惨状を撮影してグラビアに掲載していた。
 驚いたのは、「原発事故が起きたらとにかく遠くに逃げろ」という記事が載っていたことだ。7年前に私が書いた記事が、そのまま転載されていたからだ。
 たしかに「事故が起きたら風向きに注意しろ」と書いて、原発を中心にした同心円で5km、10km、20kmの双葉、相馬、いわきの概略図が載っており、悪夢が現実になっていた。

 新聞家業を引退しのちに福島市に転居してから、原発事故で避難命令で福島市に逃げてきた双葉郡の家族に「借り上げ住宅」として提供した先の担当者が「ニーズ」という三瓶氏の家族が経営する土地建物コンサルタント会社だった。
 県の借り上げ住宅の書類を持参したのは自身が津島出身の熊坂益美さんだった。彼女は双葉の同胞のために毎日働いているが、彼女自身の家族も被災者であった。胸が痛かった。
 2013年7月の野馬追祭の初日。「町議選が終わってやっと忙しいスケジュールから解放されて時間がとれた」と連絡を受けた。三瓶さんが日本テレビのDASH村のロケ地の提供者の大家さんだと聞いていたから、面白そうなので面会を申し込んでいたのだ。
 「町議選で仮設を巡回すると、町長はテレビに出るから分かるが、町会議員は何やってんだ。国はどこま進めているのか、ちゃんと説明してくれ。将来はどうなるんだ。被災者の気持ちや意見を聞いてくれ、と言われる。なんとか本にして支持者に説明したい」と三瓶さんはいう。別な人物が依頼されて本づくりは進行中だった。
 それから二年たって、最初の記者が健康上の理由で断念したという。急遽、ピンチヒッターとして替りに私が担当することになった。

 2018年1月20日。避難先の自宅にてインタビュー12回目。三瓶宝次氏は居間に飾ってある祖父母の兄弟姉妹の写真を見ながら先祖を語る。「父と母には9人の子供がいましたが、産めよ増やせよという時代でしたから、一人もらいっ子を養子に取って10人にしましたので、皇室から表彰状をもらったと聞いています」という。津島の歴史を後世に遺したい。
 三瓶さんは昭和11年8月24日生まれ。昭和32年10月に、21歳の時に結婚した。孝子さんが双葉生まれの双葉高校卒ですぐ19歳だった。
 夫人の孝子さんはDASH村のつけもの名人として常連の出演者。出身は双葉町。だるまは双葉町の名産。DASH村が17年かけて作り上げた新男米の新種「ふくおとこ」が収穫されてテレビで放映された。「うまいうまいって、言うほかないよな。テレビだもん」と裏話。かえりにおいしいつけものいただいてきました。DASH村のTOKIOのこといっぱい聞いてきました。
 19歳で津島三瓶家に嫁にきたときのこと、「あんたは自分が何もできないと思わずに少しずつ覚えればいいんだから」と姑に言われたことを昨日のことのように思い出す。
夫が保険会社で単身赴任の帰還ずっと津島の家を守って子供4人を育て、農業を守り通してきたことなど。酪農、稲作、野菜づくり。女にも女の人生とドラマがあった。
 昭和39年から41年にかけて宝次さんは母親と続いて父親が相次いで亡くなった。30歳で子供3人の当主に。昭和45年以降は子供4人(男2人女2人)を夫婦協力して養育教育し、社会人にとして成育させた。それぞれが独立し家庭を持ち、議員引退しホテル聚楽での永年勤続の身内の祝いの席には孫が作ってくれた写真パネルが飾られた。
 三瓶さんはいわきの吉野復興大臣の津島地区の後援会長を務めているので吉野復興相も駆けつけてくれたが、警備の多数のSPには驚かされた。町政で世話になった町長と区長には代表して招待したが、これからは孫たちの次世代こそ時代の主人公だ。
 自然災害と人災と。最大の苦難をどのように伝え、どう伝えてゆくか。
 3.11からすでに満7年がたった。福島第一原発事故は現在進行中で、廃炉も端緒についたばかりだ。津島の除染も賠償も、ADRも裁判もすべてが係争中だ。
 浪江町の帰還が開始されて、さまざまな行事に参加せざるを得ないので、あいかわらず忙しい。どうか健康に留意されて、故郷浪江津島のために、変わらぬ活躍を期待しています。
末筆になるが、3.11以後の膨大な報道記事、単行本、テレビ、ラジオ、インターネット等のブログなどから必要に応じて関係個所を引用し、典拠はその都度記しておいた。特に、全般的に町広報や、第1章では「事故調査調査書」、第2章で「避難弱者」、第3章の町役場職員屋中茂夫氏の手記は「はらまち九条の会」会報から、第10章の今野秀則氏による「ある被災地の記録」から、第11章の鈴木記者の「民の声」新聞の公判記事など貴重な記録を後世に残す津島の記録として、感謝して多用させていただいた。
 多くの協力者によってまとめあげた本書が、進行中の原発事故を検証しながら伝承され郷土復興を願いつつ、この場を借りて感謝いたします。
 表紙カバー裏のTOKIOリーダーの城島茂氏を囲む三瓶宝次らの家族写真は三瓶家の撮影アルバムからのものです。
 浪江町内の3・11被害者182人と31名の行方不明者の無念に心から哀悼の誠をささげます。

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