ふるさとを返せ 津島原発訴訟】「いつか帰る!」。男性原告が法廷で「サライ」熱唱。女性原告は大粒の涙。「なぜ子どもがこんな目に…」~第4回口頭弁論 2016/11/26 06:03 「民の声」
原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町津島地区の住民たちが国や東電に原状回復と完全賠償を求める「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第4回口頭弁論が23日午後、福島地裁郡山支部(上拂大作裁判長)で開かれた。2人の原告が意見陳述。男性が「サライ」を熱唱しながら、ふるさと津島への想いを語れば、女性は原発事故に振り回され心身を傷つけられた次女について、大粒の涙を流しながら訴えた。原告たちの願いはただ1つ。放射性物質に汚されたふるさとの原状回復だ。次回期日は2017年01月20日14時。
【「桜吹雪の、津島の空へ」】
「まぶた閉じれば、浮かぶ景色が」
意見陳述の中で今野美智雄さん(55)は、谷村新司と加山雄三が作った「サライ」を歌った。眼前では被告である国や東電の代理人弁護士がさめた目で見ている。今野さんの手が小刻みに震えていたのは緊張か怒りか。異例とも言える法廷での熱唱。担当弁護士ですら「法廷で歌うなんて、相当な勇気が要る。私にはとても出来ない」と称賛した歌声にはしかし、ふるさとを奪われた津島地区の住民たちの想いが詰まっていた。
「いつか帰る、その時まで、夢は捨てない」
2013年11月。今野さんが実行委員長となって苦労の末に実現にこぎつけた50歳記念の同窓会。町役場に問い合わせても「個人情報保護」の壁が立ちはだかり、全国に避難した同級生に連絡を取る事さえ難しい。それでも、津島中学校の同級生63人のうち31人が福島市の飯坂温泉に集った。亡くなったり、連絡がつかなかったりした友人は14人にのぼった。
酒を呑み、話が弾んだ。「津島に帰れっぺか?」。再会の喜びは二次会へと続いた。そして、盛り上がったカラオケの最後の曲。誰が入力したか、いまだに分からない。画面には「サライ」が流れていた。気づけば全員で歌っていた。誰ともなく「サライの空」は「津島の空」に替えて歌っていた。そしてボロボロと泣いた。飯坂の夜は、涙味の酒で幕を閉じた。
「桜吹雪の、津島の空へ」
「いつか帰る、いつか帰る、きっと帰るから」
本来であれば2011年に地元で開かれるはずだった同窓会。あの年の4月には、夜桜見物でもしながら打ち合わせをやろうと仲間と話していた。浪江中学校出身の妻から「何でそんなに集まってばかりいるの?」と呆れられるほど、津島中学校の結束力は強かったと振り返る。そんな、ささやかな楽しみさえ原発事故に奪われた。強制避難によりバラバラになってしまった。これも、賠償金では埋め合わせる事の出来ない「喪失」の1つだ。
今野さんは、こう言って意見陳述を締めくくった。
「私の願いは、元の津島に戻して欲しい、ただそれだけです」
大人も子どもも、原発事故で多くのものを失い、傷ついた。
(上)夫とともに「頑張ろう」と拳を振り上げる柴田明美さん(右)。意見陳述では、原発事故で娘の心身に生じた変調を大粒の涙を流しながら訴えた
(下)開廷前に行われたデモ行進。原告たちは「ふるさと津島を返せ」、「当たり前の生活を返せ」と訴えた
【原発に壊された中学校生活】
開廷前、少し緊張した表情で「泣かないようにしなきゃ」と話していた柴田明美さん(52)はしかし、あふれる涙を止める事が出来なかった。拭っても拭っても涙が止まらない。何度もハンカチを目に当てながら、最後まで意見陳述をやり遂げた。
涙のわけは、次女だった。
浪江町を離れたのが2011年3月15日。13時間かけて車で栃木県・日光の親戚宅へ逃げた。問題は学校だった。長女の通う福島県立浪江高校は、二本松市内に仮設校舎が出来ると言われた。しかし、次女の中学校については何も知らせが届かない。やむを得ず二重生活を選択した。夫と長女は二本松へ。明美さんと次女は日光に残った。当時の様子をこう振り返る。「家族がバラバラになるという一大決心を一瞬でしなければならなかった」。
迎えた避難先での入学式。真新しい制服も用意出来た。そこに役場職員から思わぬ言葉を耳にした。「二本松の中学校にも空きがある」。迷いは無かった。手続きを全て済ませた日光の中学校から、急いで二本松市の中学校へ転校した。4月8日には夫と長女のいる二本松市へ移った。それが家族のためだと考えた。だが、道のりは思った以上に険しかった。
津島とは異なるマンモス校。次女は「人に酔う」と訴えた。「浪江町から来た子が、クラスの友達から『放射能を浴びたんだから寄って来るな』とばい菌のように言われていた。自分も同じだから嫌だ」とも口にした。一週間後、次女は布団から出られなくなってしまった。食べられないのに嘔吐した。幼子のように足をばたつかせて暴れた。「おうちに帰りたい」、「何でこんな所にいるの?」と部屋の隅で涙を流した。明美さんは「無理して学校に行かなくていいよ」。そう言って見守った。
少しずつ学校に通えるようになったのは、浪江中学校の仮設校舎が二本松市内に出来てから。校長の尽力もあり、3年生の冬にはスクールバスで通えるようになった。そして今、次女は、来春で休校が決まっている県立浪江高校津島校で生徒会長を務める。短い意見陳述では語り尽くせない親子の苦労があった。原発事故さえ無ければ当然、味わわずに済んだ心労はあまりにも大きい。
「どうして子どもたちがこのような目に遭わなければならないのでしょうか」
明美さんは問う。そして「福島に住む決断をした事など、私たちが子どもたちにしてきた事は本当に正しかったのでしょうか」とも。
意見陳述を終え、席に座っても明美さんの目からは涙が止まらなかった。見守った原告らも泣いていた。原発事故が当たり前の生活を奪った。何気ない日常が壊された。それが原発事故なのだ。
(上)今回も、原告自ら郡山駅前に立ち、道行く人々に浪江町の現状や提訴の理由を訴えかけた
(下)原告らの訴えはただ1つ。「愛するふるさと津島を返して欲しい」ということだ
【復興途上なのに「復興五輪」?】
この日の口頭弁論では、原告側の3人の代理人弁護士も意見陳述。国が適切な規制権限を行使しなかった「無為無策」が原発事故を引き起こした、中間指針に基づく東電の賠償では不十分、などと主張した。
さらに、河合弘之弁護士が監督を務めた映画「日本と原発 4年後」のダイジェスト版が法廷で上映され、そもそもの原発の危険性、事故により生じた現実の被害、人災としての原発事故─の3点について原告側が訴えた。映画では、津波で壊滅的被害を受けた浪江町請戸地区について、2011年3月12日早朝に原発から半径10km圏内に出された避難指示によって行方不明者の捜索が出来なかった事、原発事故が無ければ助けられた命があった事を消防団員へのインタビューなどを通じて指摘している。上映に先立ち、上拂裁判長は「心理的負担が大きいという方は退席を」と促したが、原告らはじっと見入った。
開廷前には、郡山駅で道行く人々に浪江町の現状や訴訟の真意を訴えた。
マイクを握った原告は「ふるさとに、いつ帰れるのか教えてください」と声をあげた。「あと何年経ったら帰れるのかも分からない。1日も早く除染をして愛するふるさとに帰して欲しい」とも。そして、4年後に控えた東京五輪については「『復興五輪』などという言葉はやめていただきたい」と怒りを口にした。
雨や雪こそ降らなかったが、冷たい風が原告たちに吹き付けた。原告の女性は「寒くて手が震えた」と話した。別の男性は「次回は雪になるかもな」とため息をついた。裁判所周辺で行われたデモ行進でも、気温が上がらない中で「ふるさとを返せ」と訴えた。もうすぐ原発事故から6度目の正月。ふるさとで落ち着いた新年を迎えたいと願うのは当然だ。それを奪ったのが原発事故なのだ。
(了)